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勝海舟 資料1


勝 海舟 資 料





	【 大砲の製造 】
1852年(嘉永5)海舟は原書を頼りに,大砲の設計,製造を始める。
ある日,大砲3門の注文を受けた。1門600両。合計1800両と言う製作費を見積もった。
さっそく設計をして築地にある増田という鋳物師へ製造依頼した。
このころは鋳造師は設計代として,依頼主にバックマージンを渡すのが慣例となっていた。
増田もバックマージンとして500両を持って海舟の元へ持ってきた。そんな増田に海舟は、怒鳴りつけ た。増田は、1門300両、3門で900両のところ500両しか持ってこない事に怒鳴られたものと 思ったが、海舟はバックマージンよりその分銅の成分を増して、おれの名前、日本のために良い大砲を 作るように、増田に怒鳴ったのであった。増田は海舟の赤心に誰よりも良い大砲を作ったのであった。
その事が、勝の名前を広く知らしめた。

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	【 海 防 意見書 】
私義,若輩を顧みず,国家の御大切の御義ども申しあげ候は,誠に以て死罪の至りに御座候えども, 数代莫大の御国恩にも浴し居り候身分,まことに新しく憂慴つかまつり候儀につき,恐れを顧みず愚喪の義, 謹みて申しあげ奉候

第一:御人選の儀,厚く御世話遊ばされ,下情上に達し候様,遊ばさるべく候事

第二:海国兵備の要,軍艦御座無く候ては,叶い難しく候事

第三:天下の都府に厳重の御備え有り度事。此の条は前文にも申しあげ候えどもなお又反覆申しあげ奉り候

第四:御旗本の面々,厚く御世話遊ばされ兵制御改正,教練学校建造の事

第五:人工硝石御世話,ならびに武具製作の事

嘉永6年7月12日
小普請組 松平美作守支配 勝麟太郎

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	【 島津 斉彬との面会 】
1858年(安政5年)3月
 
海舟は軍艦咸臨丸にて長崎から平戸,下関を回り豊予海峡を経て薩摩の山川港に入港した。
このとき,薩摩藩主島津斉彬は指宿温泉に居たが,幕府の軍艦が来たとの事で,直ちに馬に乗り山川港に 駆けつけ,咸臨丸で海舟を始め目付の木村摂津守,カッテンディーケ士官の出迎えを受けた。
それから咸臨丸は鹿児島に向かい,一行は上陸後,薩摩の砲台や集成館を見学した。更に海舟達を 接待した。
目付の木村摂津守が居たとはいへ,薩摩藩主の斉彬が無役に近い海舟を自ら迎え,海舟を破格の接待した 裏には,薩摩が支配する琉球を海舟達に見られたくなかったためであるが,薩摩藩士達は,海舟の噂を より一層「優れた人物」と認識した。

西郷はこのとき薩摩に居なかったが,西郷の耳にも藩主自ら接待をする海舟という人物の存在を知った。

海舟もこのとき斉彬から「西郷吉之助」と言う人物の存在を知らされた。

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	【 大 老 と 井伊直弼 】


老中の首班を大老に補すのであるが、この職は必ず置くわけではない。徳川300年の間置か
れているほうが少ない。
1638年(寛永15)にこの職を置いて1865年(慶応1)1月までに僅かに10名を 数えるに過ぎない。
老中は、祖先以来譜代忠勤の家で、だいたい10万石以下のものが任ぜられたが、井伊、酒井、 堀田、土井の10万石以上のものが老中の局に入ると、大老職となったのである。
この職は政務を総括して、将軍を補佐する最高の職であった。将軍といえども、大老の決裁を 動かす事は出来なかった。

大 老 歴 任 表

土井大炊頭利勝 下総古河16万石 寛永15−正保1

酒井讃岐守忠勝 若狭小浜12万3千石 寛永15−明暦2

酒井雅楽頭忠清 上野廐橋13万8千石 寛文6 −延宝8

堀田筑前守正俊 下総古河16万石 天和1 −貞享1

井伊掃部頭直興 近江彦根35万石 元禄10−元禄13

井伊掃部頭直該 近江彦根35万石 宝永8 −正徳4

井伊掃部頭直幸 近江彦根35万石 天明4 −天明7

井伊掃部頭直享 近江彦根35万石 天保6 −天保12

井伊掃部頭直弼 近江彦根35万石 安政5 −万延1

酒井雅楽頭忠績 播磨姫路15万石 慶応1 −慶応1

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	【 咸臨丸 資料 】

安政6年、安政の大獄のさなか9月1日付けにてアメリカ渡米の
正史が決定し、その後木村摂津守による朝陽丸にて日本人だけの
別船仕立てが企画されたが、10月18日に、朝陽丸より大きな
観光丸に変更される。

さらに同乗予定のブルック大尉より観光丸に不備があるとの事で
12月23日に咸臨丸に変更された。


咸臨丸のデーター
咸臨丸はオランダから、1857年に10万ドルで物と
交換で買い取った。
長さ:27間(約47メートル)
幅 : 5間(約7.3メートル)
250トン:100馬力
砲12門の小型木造軍艦

咸臨丸という名所の由来は、
『即ち咸はみなと訓ず、気の相交わり和する義なり。
臨はのぞむと訓ず。
咸臨は、君臣互いに親しみ厚く情あまねきの至りなり。』
易経に咸臨貞吉とあり


アメリカ渡米副使のデーター
< 乗 員 > 軍艦奉行  木村摂津守 <艦隊司令官> 大御番   勝 麟太郎 <咸臨丸艦長> 教授方   佐々倉 桐太郎 <運用長将校>       鈴藤 勇次郎 <運用科士官>       小野 友五郎 <航海長>       肥田 浜五郎 <機関長>       浜口 興右衛門(安井 畑蔵より変更)<運用方>       松岡 盤吉 <測量方>       山本 金次郎(竹川 竜之助より変更)<蒸気方>       伴 鉄太郎 <測量方> 通弁主務  中浜 万次郎 教授方手伝 赤松 大三郎       岡田 井蔵       根津 鉄次郎       小杉 雅之進 操練所勤番 吉岡 勇平  同 下役 小永井 五八郎(宮本 小一郎より変更) 医師    牧山 修卿     木村 宗俊        前門生 二人 従者    福沢 諭吉 大橋 栄次 秀島 籐之助 長尾 幸昨 鼓手    斎藤 留蔵 水夫    65人 (内小頭 五人) 火こ 16人 (内小頭 3人) 大工 1人 鍛冶 1人 < 食 料 その他 > 米 百人,百五十日分(但し,1日五合宛),1日五斗宛,七十五石   水 同断(1日二升五合宛)1日二石五斗宛,四十日分。 灯油 七斗五升(一夜五カ所 1カ所1合宛) 用意共1石 蝋燭 七百五十挺(同五本宛) 半紙 七束(1日五枚宛) 美濃紙 三束 程村紙 同上,西の内紙 同上(これらは,図取り,その他日記用) 炭 百五十俵(九十日分) 用意共 二百俵 薪 千三百五十把(九十日分) 但し,1日十五把宛 醤油 七斗五升(1日1人五勺宛) 1石五斗 砂糖 七樽 茶 五十斤 小豆 二石 大豆 二石 胡椒 二斗 唐辛 五升 小麦粉 六斗 麦 四石 引割麦 二石 葛粉 二斗 松魚節(鰹節) 千五百本 梅干 四壺 鶏 三十羽 家鴨 二十羽 豚 二匹 酢 六斗 塩 三俵 その他野菜,乾物 蒸気機関用 石炭 二千斤 薪 十把 油 五升五合 ヘット(豚の脂) 壺数大小四つ 運転中,二時に用い尽す員数 油 二升(1昼夜に1斗二升 七昼夜に八斗四升) 灯油 五合(同三升 同二斗1升) ヘット 八合(同四升八合 同三斗三升九合) 麻 一斤 石炭 二千斤(同一万二千斤 同八万四千斤) サボン 半斤(同三斤 同十八升) 時々雑用,七日毎に用ゆる物 軽石 丹 まごまの油 唐の土 麻 上中下とも 木綿 箒 しゅろたわし ささら 松炭 附木 銅,同粉 鉛 銑,同粉 錫 真鍮,同粉 絵具,同筆 刷毛 水銀 ボートロート(Pootlood 黒鉛) 硫黄華 松脂 焼石炭 金 千八百六十三両三分永百十八文六分 金 洋銀 九千三十八枚七十三セント
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	【 軍 艦 奉 行 】
幕末期の幕府の職名。安政6年(1859)設置。海軍を統括し、軍艦の購入や 建造・操練技術者の養成などを管轄。
安政4年4月に軍艦操練所を築地に開所して、観光丸で操業を始めた時に、永井玄蕃頭尚志が 軍艦教授所に任ぜられたが、教授所は軍艦所と改名されたので、安政6年2月24日に総督は 軍艦奉行の名称に変わった。
当初若年寄支配だったが、慶応2年(1866)より海軍総裁支配となった。役高2000石。

軍艦奉行は戦隊司令官の立場である。

    軍 艦 奉 行 歴任表

安政6−安政6		永井玄蕃頭尚志
安政6−安政6		水野筑後守忠徳
安政6−文久3		井上信濃守清直
安政6−文久3		木村摂津守嘉毅
文久2−文久3		内田主殿頭正徳
文久3−文久3		松平備後守乗原
元治1−元治1		勝安房守義邦
元治1−元治1		堀伊賀守利孟
元治1−慶応1		小栗上野介忠順
慶応1−慶応3		木下大内記利義
慶応1−慶応2		石野筑前守則常
慶応1−慶応1		岡部駿河守長常
慶応2−明治1		勝安房守義邦
慶応2−慶応3		藤沢志摩守次謙
慶応3−			池田可軒
慶応3−明治1		木村兵庫守嘉毅
慶応3−明治1		赤松播磨守範静


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	【 下 関 戦 争 】
文久3年5月10日から長州藩による外国艦の攻撃に対して、外国勢が反撃に出て始まった戦争。

第1回砲撃:文久3年5月11日:アメリカ商船ペンプローグ号Pembroke
第2回砲撃:文久3年5月23日:フランス軍艦キャンシャン号Kienchang
第3回砲撃:文久3年5月26日:オランダ軍艦メデューサ号Medusa
第4回襲撃:文久3年6月1日:アメリカ軍艦ワイオミング号Wyoming
第5回襲撃:文久3年6月5日:フランス軍艦タンクレード号Tancrede及びセミラミス号Semiramis
第6回四国連合反撃:元冶1年8月5日:
国別艦名砲数
イギリスユーリアラス: Euryalus35
イギリスターター: Tartar21
イギリスバロサ: Barrosa21
イギリスコンカラー: Conqueror48
イギリスレオパード: Leopard18
イギリスアーガス: Argus
イギリスコケット: Coquette14
イギリスバウンサー: Bounzer
イギリスパーシュース: Perseus17
フランスセミラミス: Semiramis 35
フランスデュプレクス: Dupleix 10
フランスタンクレード: Tancrede
オランダ メトレン・クルイス: Metlen Cruis 16
オランダ ジャムビ: Djamb 16
オランダ アムステルダム: Amsterdam
オランダ メデューサ: Medusa 16
アメリカ ターキャング: Takiang

参加軍艦:17隻 艦隊砲数:288門 乗員:イギリス、2、850名 フランス、1、155名 オランダ、951名 アメリカ、58名

この戦争は、上記の通り一度たりとも砲撃されていないイギリス軍が主力である。
イギリスは当初この戦争に否定的であったが、下関海峡を通れない事の経済的損失が明らかに なると愕然と主導権を握った。

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	【 陸 軍 総 裁 】

陸軍奉行の上にあり、歩、騎、砲三兵の統括をした。
文久2年の幕末の幕府の陸軍改制によって、徳島藩主蜂須賀斉裕が始め歩、騎、砲三軍の
頭となり、次いで慶応1年には、老中松前宗広が代わり、同2年12月28日陸軍総裁の名が
生まれ、老中兼任として、松平縫殿頭乗謨がこれに任じた。

    陸 軍 総 裁 歴任表

慶応2−明治1		松平縫殿頭乗謨
明治1−明治1		勝安房守義邦


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	【 榎 本 艦 隊 】

軍艦	開陽丸	2817トン	砲門数:26門
軍艦	回天丸	1678トン	砲門数:13門
軍艦	蟠竜丸	  370トン	砲門数:  4門
軍艦	千代田形  138トン	砲門数:  3門
輸送船	長鯨丸	  996トン
輸送船	神速丸	  250トン
輸送船	大江丸	  160トン
輸送船	鳳凰丸	  130トン

官軍軍艦
軍艦	甲鉄丸	1358トン	砲門数:  8門	
軍艦	朝陽丸			砲門数:12門
軍艦	春日丸	1269トン	砲門数:  6門
軍艦	陽春丸	  530トン	砲門数:  6門
軍艦	延年丸	  250トン	砲門数:  4門
軍艦	丁卯丸	  125トン	砲門数:  5門
輸送船	飛竜丸	 
輸送船	戊辰丸	  316トン
輸送船	豊安丸	  256トン


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【 薩長同盟 】
一.戦と相成候時は直様二千余之兵を急速差登し、只今在京之兵と合し、
	浪華へも千程は差置、京坂両処を相固め候事。

一.戦自然も我勝利と相成候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上、屹度尽力之次第有之候との事。

一.万一戦負色に有之候とも、一年や半年に決而潰滅致し候と申事は無之事に付、
	其間には	必尽力之次第屹度有之候との事。

一.是なりにて幕兵東帰せしときは、屹度、朝廷へ申上、直様冤罪は従
	朝廷御免に相成候都合に屹度尽力との事。

一.兵士をも上国之上、橋、会、桑等も如只今次第に而、勿体なくも、朝廷を擁し奉り、
	正義を抗み、周旋尽力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外無之との事。

一.冤罪も御免之上は、双方誠心を以相合し、皇国之御為に砕心尽力仕候事は不及申、
	いづれ之道にしても今日より双方皇国之御為、皇威相暉き御回復に立至り候を目途に、
	誠心を尽し屹度尽力可仕との事。

	追記
	尚々、本文之処は呉々も得と御熟覧を賜り、万一も承知仕違へ候処は、
	御直し被成遣候而、必々幸便御裏書御答、偏奉願上候。

	(1月23日付 龍馬宛木戸孝允書簡)





【 西郷隆盛から大久保利通への手紙 】
勝氏へ始めて面会仕り候処、実に驚き入り候人物にて、最初は、打叩く賦(つもり)にて差し越し候処、 頓(とん)と頭下げ申し候。どれ丈ケ(だけ)か智略のあるやら知れぬ塩梅(あんばい)に見受け申し候。
先ず、英雄肌合の人にて、佐久間(象山)より事の出来候儀は一層も越え候わん。
学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候得共、現時に臨み候ては、此の勝先生とひどくほれ申し候。