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海 舟 日 記文久2年8月20日 海軍の議 登営。 この日、御前に於て、閣老、参政、大目付、目付、御勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行、そのほか共、出席。 海軍の議あり。 大趣意は、此の程、御軍政の改正局にて、大綱を論ぜし書を以て、臣に尋ねさせらる。その事に云う。 我邦にて軍艦三百数十挺を備え、幕府の士を以てこれに従事せしめ、海軍の大権、政府にて維持し、 東西北南海に軍隊を置かんには今よりして幾年を経ば全備せんやと。 謹んで答う。 これ五百年の後ならでは、その全備を見るに至る難しかるべし。且、軍艦は数年を出でずして整うべしと いえども、その従事の人員、如何ぞ習熟を得べけんや。当今、英夷の盛大成も、殆ど三百年の久しきを 経て、当時に到れり。もし朝議一定せば、子々孫々、その語趣意を反せず、その英意を継述するに、遵奉 する人にあらざれば、能わざること必せり。それ海国防禦の策は、彼を征伐するの勢力充分にして あまりあるにあらざれば能わず。いたずらに人員の増多なると、船艦数隻なるとも、人民、その学術は 勿論、勇威、彼を圧伏するに足らざれば、真の防禦はたちがたからん。今、かくの如きの大業を議せんよりは、 寧ろ学術の進歩して、その人物の出でんことこそ肝要ならめ、云々。 この前日、春嶽公、和泉殿(水野和泉守忠精)、御逢いこれあり、御軍艦の修復、急速に世話すべきの旨なり。 又、春嶽公の仰せに云う。海軍、如何にして盛んなるべきやと。 答えて云う。 当今、乏しきものは人物なり。皇国の人民、貴賤をいわず、有志を選抜するにあらざれば、極めてその人得 難からん。唯、幕府の士のみを以て、これに応ぜしめんと欲せば、如何ぞ得べけんや。大小侯伯も、共に 尽くすにあらぜれば、盛大得べからず。且、我対馬島は英仏懇望するの意あり。これは、魯国の西陲を押止 するの大策なり。急にこの島を以て上地仰せ付けられ、良港を開き、貿易地となす時は、朝鮮、支那の 往来開け、且、海軍盛大に到るの端ならんか、云々。 文久2年に 戻る 文久2年10月20日 大政奉還 ときの側御用取次であった大久保一翁は、越前藩主松平春嶽とそのブレーン横井小楠を前に、天皇の攘夷 決行の勅諚にどう対処したらいいのかを語った。 「攘夷の勅諚奉承は不可なり。いかんとなれば、元来、京都より重大の件を御沙汰ある時はいつも『後々 いか様ともなるべければ、一応はお請けあるべし』と内論せらるることなるが、表面の御沙汰には書面あり。 故に後日まで消滅せざれど、内論には書面なく口頭のみなれば、後日に至り何の証拠ともならず・・・・ かかる実例に照らして考案すれば、今度はどこまでも攘夷は国家のため得策にあらざる旨を仰せ立てられ、 しかる上に、万一京都においてお聞き入れなく、やはり攘夷を断行すべき旨仰せ出だされなば、その節は 断然、政権を朝廷に奉還せられ、徳川は神祖の旧領、駿遠三の三州を請い受けて、一諸侯の列に降りらるべし。 もっとも、しか政権を奉還せられたらば、天下はいかがなりいくべきや、あらかじめ測り知られねど、 徳川家の美名は千歳に伝わり、かの無識の覆轍を履み、千歳の笑いを招かるるには万々勝りねべし」 以上 『大久保一翁』より 文久2年に 戻る 神戸屋敷、取建入用大凡 ○ 屋敷地八反余 並びに樹木代六両共 52両 ○ 建物 1個所、右引移り、地ならし共 30両 ○ 塾三間幅、十間の長さ。新規建具畳共 173両 ○ ほか台所、雲隠、馬屋、門番所、新規、 77両 ○ 屋敷外囲三方、土堤四尺の高さ、堀四尺幅、大凡百間余、芝代、築上ケ共、 15両 ○ 生田往還の方すき下ケ□ 15両 ○ からたち百三十間、土堤の上へ植付。但し一間につき11本並。1本20文宛 5両 ○ 引家、畳、建具 計18両 畳16畳 17匁宛4両 唐紙8枚 1両2分 障子16枚 2両 天井新規、湯殿 2両2分 ○ 門 3両 ○松の樹植付 2両 ○ 竈(かまど) 2両 ○ 仮塀 2両 ○ 台所向建具 8両 ○庄屋、年寄、御代官手代へ地所貸入祝儀 3両 以上 『勝海舟全集 第18巻 海舟日記T』より 文久3年に 戻る 我が国最初の軍艦行進 このとき、幕府では例のとおり陸路東海道を御通過になるという予定であったけども、おれは、日本は 海国であるから、国防のためには海軍を起こさねばならぬ。しかし海軍を起こすには将軍などが率先して これを奨励してくださらなくてはいけない。 それ故このたびの上洛も、諸藩の軍艦を従えて、海路より出発あるがよろしかろうと、老中などに建議した。 ところが老中なども、至極もっとも事ではあるが、諸藩から各々その船を出させるのがなかなか困難だと 心配するから、「それは私がきっと引き受けます。しかしながら一旦私にお任せある以上は、種々ささいの ことまであなたがたよりおさしずがあっては困ります」といったら、それは承知だから、いっさいおまえに 任せるということになった。 そこでおれは直ちに諸藩に命じて、このたびは、将軍が海路よりご上洛になるから、おのおのその船艦を 出してお供をせよと達した。 ところが西洋形の船を所有する藩は、皆一そうずつを出したが、また中には幕府の船を借りて、乗組員だけ は、その藩から出してきたものもあった。 そのとき集まった船と船将とはこの表のとおりだった。 幕府 翔鶴丸 :頭取 :肥田 浜五郎 幕府 朝陽丸 : :伴 鉄太郎 幕府 千秋丸 : :荒井 藤太郎 幕府 第一長崎丸:長崎奉行:定役:鈴木 卓太郎 幕府 播竜丸 :頭取 :浜口 卓右衛門 越前 黒竜丸 : :不明 薩摩 安行丸 :セーラ鉄船蒸汽三本橋:船将:大山 彦介 佐賀 観光丸 :幕府より借船:番頭並:浜野 源六 加州 発起丸 :軍艦奉行:岡田 雄次郎 南部 広運丸 : :長岡 安之助 筑前 大鵬丸 : :松本 主殿 雲州 八雲丸 :奉行 :杉原 杢 乗組員は皆、「私どもは船のことは誠に未熟であるから、万事さしずを頼む」というから、「よしよし おれが引き受けた。心配するには及ばない」といって、おれの部下から練達のものを三人ほどずつ各藩の 船に乗りこ込ましたところが、彼らも大いに喜んだよ。そのうえ彼らは藩から相当の手当てをもらって いる上に、幕府からも幕府船同様に給与を与えたから、ちょうど二重に給与をもらう都合で、ますます 喜んだよ。 将軍が多数の軍艦を率いて上洛するということは、前古未曽有のことで、実に壮観だあったよ。 しかし前古未曽有のことであるだけ、おれは責任は重く、かつは諸藩の船もあることだから、おれは終始 マストの上に登って、艦隊の全部を見渡していたが、大阪へ着くまで1週間というものは、ほとんど 眠らなかったよ。 しかしともかく無事に大阪に着いて、それから将軍は上洛せられたが、ずいぶん骨が折れたとはいえ、 これも日本は海軍を盛んにせねばいけないという考えから、幕府や諸藩の海軍を奨励するつもりなのさ。 以上 『勝海舟全集 第14巻 氷川清話』より 文久3年に 戻る 以上 『勝海舟全集 第18巻 海舟日記T』より |
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