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勝 海舟 に聞く各人物評勝海舟の晩年、明治27年、28年にかけて回顧談より抜粋したものです。 索引名 1:渋田 利右衛門 のこと 2:横井 小楠 と 西郷 南洲 のこと 2−1:横井 小楠 のこと 2−2:西郷 隆盛 のこと 3:佐久間 象山 のこと 4:藤田 東湖 のこと 5:木戸 孝允 のこと 6:島津 斉彬公 のこと 7:小栗 上野介 のこと 8:山岡 と 大久保 一翁 のこと 9:二宮 尊徳 のこと 10:鍋島 閑叟候 のこと 11:江川 太郎左衛門 のこと 12:山内 容堂公 のこと 13:岩倉 具視公 のこと 14:高島 秋帆 のこと 15:沢 太郎左衛門 のこと 彼は、元来函館の商人の子で、子供の時から本が非常に好きで、しじゅう本ばかり読んでいる ので、親がひどくこれを嫌がって、書見をいっさい禁じたのを、なお隠れ隠れに読んでいたと ころが、或る時、親から見つけられて、むごい目に叱られた上、懲らしめのため両手を縛って 二階へ押し込められ、一晩中飯も食わないでおらせられた。 やがて日も暮れになると、親はもう懲りたであろうと思って、二階に上がってみると、懲りる どころか、縛られながらもその辺に落ち散ってあった双草紙を、足で開いて読んでおるので、 親もとうとう我を折って、「これからは家業さえ怠らねば、書見を許す」ということになった。 そこで渋田は非常に喜んで、家業の余暇にはいろいろな書物を買って読み、江戸へ出た時など には、たいそうな金をかけてたくさんの珍本や有益な機械などを求めて買って、郷里の人に説 き聞かせるのを、一番の楽しみにしておるということである。 おれもこの男の知遇にはほとほと感激して、いつかはこれに報ゆるだけのことしようと思って いたのに、惜しいことには、渋田はおれが長崎にいる間に死んでしまった。 こんな残念なことは生まれてからまだなかったよ。 長崎に行く前、渋田と別れる時に渋田は、「万一、私が死んであなたの頼りになる人がなくなっ ては」と言って、2-3人の人を紹介し暮れたが、その一人が嘉納冶右衛門、彼は冶五郎[柔道、 講道館の開祖]の親に当たるので、灘の酒屋をしていたのだ。 今一人は伊勢の竹川竹斎(ちくさい)と言う医者で、その地方では屈折の金持ちで、蔵書も 数万巻あった。 それから今一人日本橋の浜口、国会議員をしている浜口の本家であった。 すべてこれらの人はそれぞれ一種の人物で、さすが渋田の眼識は高いものだと、おれは後で悟った。 ご新後におれは函館奉行に話をして、渋田の遺書をいっさい奉行で買い上げて、その子孫には 帯刀を許すようにしてやったが、後で奉行は珍本のたくさんあったのに驚いていたよ。 函館の人に聞いて見ると、渋田と言う男は家業には勉強するが、あまりにも性急なために時々 失敗したという位なことで、誰もその偉かったことを知らないようだ。 全体、渋田は自分でもあまり高ぶらなっかたのだけど、しかしあるときおれに向かって、「世間 で、いうところの大家先生にもあまり感服する人はいない」といったくらいで、世の中の人をあ まり恐れてはいなかったのだ。 あの嘉七という本屋に聞いたら、渋田が毎年買い入れる書物の代金は、どうしても六百両以上 であったということだ。 索引名に戻る ○ 横井 小楠 と 西郷 南洲 のこと おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人みた。それは横井小楠と西郷南洲だ。 横井は、西洋のことも別にたくさん知らず、おれが教えてやったくらいだが、その思想の 高調子なことは、おれなどは、とてもはしごを掛けても、およばぬと思ったことがしばしば あったよ。 おれはひそかに思ったのさ。横井は、自分で仕事をする人ではないけれど、もし、横井の言 を用いる人が世の中にあったら、それこそ由々しい大事だと思ったのさ。 その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれのほうが勝るほどだったけれども、 いわゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。 そこでおれは幕府の閣老に向かって、天下にこの二人があるから、その行く末に注意なされと 進言しておいたところが、その後、閣老はおれに、「その方の眼鏡もだいぶ間違った。横井は何 かの申し分で蟄居を申し付けられ、また西郷は、ようやくご用人の職であった。家老などと いう重い身分でないから、とても何事もできまい」といった。 けれどもおれはなお、横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配してい たのに、はたして西郷は出て来たわい。 索引名に戻る ○ 横井 小楠のこと
横井小楠のことは、尾張のある人から聞いていたが、長崎で初めて会ったときから、途方もない聡明な 人だと、心中大いに敬服して、しばしば人をもってその説を聞かしたが、その答えには、常に「今日は こう思うけれども、明日になったら違うかもしれない」 と申し添えてあった。そこでおれは、いよいよ 彼の人物に感心したよ。 たいていの人は、小楠をとりとめのないことをいう人だと思ったよ。 維新の初めに、大久保[利通] すら「小楠を招いたけれど、思いのほかだ」 といっていた。それゆえに 一個の定見というものはなかったけれど、機に臨み変に応じて物事を処置するだけの余裕があった。 こうして、なんにでも失敗してものがきて善後策を尋ねると、その失敗を利用して、これを都合よい方に 移らせるのが常であった。 おれが米国から帰ったときに、彼が米国の事情を聞くから、いろいろ教えてやったら、一を聞いて十を 知るというふうで、たちまち彼の国の事情に精通してしまったよ。 小楠は能弁で南洲は訥弁だった。 小楠が、春嶽公[越前の松平慶永]に用いられたとき、もすこし手腕を振るうことはできなかったか という人もあるが、あのときは、実際できなかったのだよ。また、維新のときは、西郷は、なぜ小楠に 説きすすめなかったかという人もあるが、これは必要がなかったからだ。 小楠は、毎日芸者や幇間(ほうかん)を相手に遊興して、人に面会するのも、一日に一人二人会うと、 もはや疲労したといって断るなど、へいぜいわがまま一杯に暮らしていた。だから春嶽公に用いられても、 また内閣へでても、一々政治を講するなどは、うるさかっただろうよ。 こういうふうだから、小楠のよい弟子といったら、安場保和一人くらいのものだろう。 つまり小楠は、悟られ難い人物さ。 索引名に戻る ○ 西郷 隆盛のこと おれが初めて西郷に会ったのは、兵庫開港延期の談判委員を仰せ付けられるために、おれが召されて 京都に入る途中に、大阪の旅館であった。その時西郷はお留守居格だったが、くつわの紋のついた黒縮緬の 羽織を着て、なかなか立派な風采だったよ。 西郷は、兵庫開港延期のことを、よほど重大の問題だと思って、ずいぶん心配していたようだったが、 しきりにおれにその処置法を聞かせようというわい。 そこでおれが言うには「まだ確かにはしれぬが、このたびのお召は、たぶん談判委員を仰せ付けられる ためだろう。しかし小生は、べつだんこの談判を難件とは思わない。小生がもし談判委員となったら、 まず外国の全権に、君らは、山城[京都]なる天皇を知っているかと尋ねる。すると彼らは、必ず知って いると答えるだろう。そこで、しからば、その天皇の叡慮を安んじ奉るために、しばらく延期してくれと 頼む。そして一方においては、加州、備州、薩摩、肥後その他の大名を集め、その意見をとって陛下に 奏聞し、さらに国論を決するばかりさ」とこういった。それから彼の問うに任せて、おれは幕府今日の 事情をいっさい談じて聞かせた。 彼がいうのは、「とかく幕府は薩摩を憎んで、みだりに疑いの眼をもって、禍心を包蔵するように思うには 困る」というから、おれは「幕府のつまらない小役人どものことだ。幕府にも人物があろうから、そんな ことは打っちゃっておきたまえ。かようのことに懸念したり、憤激したりすのは、貴藩のために決して よくない」といったら、彼も「承知した」といったっけ。 坂本竜馬が、かつておれに、「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者もいって会ってくるに より添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていう には、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく 響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本もなかなか鑑識のある やつだよ。 西郷におよぶことのできないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。 おれの一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。おれだってことに処して、多少の権謀を用い ないこともないが、ただこの西郷の至誠は、おれをしてあい欺くことができなかった。このときに際して、 小籌浅略を事とするのは、かえってこの人のためにははらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも 至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しも、あのとおり立談の間にすんだのさ。 西郷は、今いうとおり実に漠然たる男だったが、大久保は、これに反し実に截然としていたよ。 官軍が江戸城に入ってから、市中の取り締まりがはなはだめんどうになってきた。これは幕府はたおれた が、新政府がまだしかれないから、ちょうど無政府の姿になっていたのさ。しかるに大量なる西郷は、 意外にも、実に意外にも、この難局をおれの肩に投げかけておいて、いってしまった。 「どうかよろしくお願いもうします、後の処置は、勝さんがなんとかなさるだろう」といって、江戸を 去ってしまった。この漠然たる『だろう』にはおれも閉口した。実に閉口したよ。 これがもし大久保なら、これはかく、あれはかく、とそれぞれ談判しておくだろうに、さりとては あまり漠然ではないか。しかし考えてみると、西郷と大久保との優劣は、ここにあるのだよ。西郷の 天分がきわめて高い理由は、実にここにあるのだよ。 西郷は、どうも人にわからないところがあったよ。大きな人間ほどそんなもので、……小さいやつなら、 どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでないのう。 例の豚姫の話があるだろう豚姫というのは京都の祇園で名高い……もっとも始めから名高かったのでは ない。西郷を関係ができてから名高くなったのだが……豚のごとく肥えていたから、豚姫と称せられた 仲居だ。この仲居が、ひどく西郷にほれて、西郷もまたこの仲居を愛していたのよ。 しかし今のやつらが、茶屋女と、くっつくのとはわけが違っているよ。どうもいうにいわれぬよい ところがあったのだ。これはもとより一の私事に過ぎないけれど、だいたいがまずこんなふうに常人と 違って、よほど大きくできていたのだ。 西郷の大度洪量について、維新当時のもようを、もう少し細かにいうと、官軍が品川まで押し寄せてきて、 今の江戸城へ攻め入ろうという際に、西郷は、おれが出したわずか一本の手紙で、芝、田町の薩摩屋敷まで、 のそのそ談判にやってくるとは、なかなか今の人ではできないことだ。 あのときの談判は、実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。 その時分の形勢といえば、品川から西郷などくる、板橋からは伊知地などがくる。また江戸の市中では、 今にも官軍が乗り込むといって大騒ぎさ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中 においた。 そこで、今話したとおり、ごく短い手紙を一通やって、「双方どこにか出会いたるうえ、談判いたしたい」 との旨を申し送り、また、「その場所は、すなわち田町の薩摩の別邸がよかろう」と、こっちから選定して やった。すると官軍からもすぐに承知したと返事をよこして、いよいよ何日の何時に薩摩屋敷で談判を開く ことになった。 当日のおれは、羽織袴で馬に乗り、従者一人つれたばかりで、薩摩屋敷へ出かけた。 まず一室へ案内せられて、しばらく待っていると、西郷は庭のほうから、古洋服に薩摩風の引っ切り下履き をはいて、例の熊次郎という忠僕を従え、平気な顔で出てきて、「これは実に遅刻しまして失礼」と挨拶 しながら座敷にとおった。その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思われなかった。 さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念も はさまなかった。 「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」 西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を 免れたのだ。もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは、自家撞着だとか、言行不一致だとか、 たくさんの兇徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるかとか、いろいろうるさく 責めたてるに違いない。万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんなやぼはいわない。 その大局を達観して、しかも果断に富んでいたには、おれも感心した。 このときの談判がまだ始まらない前から、桐野(利秋)などいう豪傑連中が、大勢で次の間へきて、 ひそかに様子をうかがっている。薩摩屋敷の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけている。その ありさまは実に殺気陰々として、ものすごいほどだった。しかるに西郷は泰然として、あたりの光景も 眼にいらないもののように談判をしおえてから、おれを門の外まで見送った。 おれが門を出ると近傍の街々に屯集していた兵隊は、どっと一時に押し寄せてきたが、おれが西郷に 送られて立っているのを見て、一同うやうやしく捧げ銃の敬礼を行った。おれは自分の胸を指して兵隊に 向かい、「いずれ今明日中にはなんとか決着いたすべし。決定しだいにて、あるいは足下らの銃先に かかって死ねることもあろうから、よくよくこの胸を見覚えておかれよ」と、いい捨てて、西郷に いとまごいをして帰った。 このとき、おれが殊に感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の ときにも、終始座を正して手を膝の上にのせ、少しも先勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような ふうがみえなかったことだ。その胆量の大きいことは、いわゆる天空海濶で、見識ぶるなどいうことは、 もとより少しもなかった。 あの人見寧という男が若い時分に、おれの処へやってきて、「西郷に会いたいから紹介状を書いてくれ」と いったことがあった。ところがだんだんようすを聞いてみると、どうも西郷を刺しにいくらしい。 そこでおれは、人見の望みどおり紹介状を書いてやったが、中に「この男は足下を刺すはずだが、 ともかくも会ってやってくれ」と認めておいた。 それから人見は、じきに薩州へ下って、まず桐野に面会した。桐野もさすがに眼がある。人見を見ると、 その挙動がいかにも尋常でないから、ひそかに彼の西郷への紹介状を開封してみたら果して今の始末だ。 さすがに不敵の桐野も、これには少しく驚いて、すぐさま委細を西郷へ通知してやった。ところが西郷は いっこう平気なもので、「勝からの紹介なら会ってみよう」ということだ。 そこで人見は、翌日西郷の屋敷を尋ねていって、「人見寧がお話を承りにまいりました」というと、 西郷はちょうど玄関へ横臥していたが、その声を聞くとゆうゆうと起きなおって、「私が吉之助だが、 私は天下の大勢などというようなむつかしいことは知らない。まあお聞きなさい。たかが、先日私は大隅 の方へ旅行した。その途中で、腹がへってたまらぬから16文で芋を買って食べたが、たかが、16文で 腹を養うような吉之助に、天下の形勢などというものがわかるはずがないではないか」といって大口を あけて笑った。 血気の人見も、このだしぬけの話に気をのまれて、殺すどころの段ではなく、挨拶もろくろくせずに帰って きて、「西郷さんは、実に豪傑だ」と感服して話したことがあった。 知識の点においては、外国の事情などは、かえっておれが話して聞かせたくらいだが、その気胆(きも)の 大きいことは、このとおり実に絶倫で、議論もなにもあったものではなかったよ。 今の世の中に西郷が生きていたら、話し相手もあるのに−−。 南洲の後家と話すや夢のあと 索引名に戻る ○ 佐久間 象山のこと ![]() 佐久間象山は、物知りだったよ。学問も博し、見識も多少もっていたよ。しかしどうもほら吹きで困るよ。 あんな男を実際の局にあたらせたらどうだろうか。…なんとも保証は出来ないのう。 横井と佐久間との人物は、どうのこうのといったところが、それはたいへんな違いさ。 ぜんたい横井と言う男は、ちょっと見たところでは、なんの変わった節もなく、その服装なども、 黒ちりめんのあわせ羽織に、平ばかまをはいて、大名のお留守居役とでもいうようなふうで、 人柄もしごく老成円熟していて、人と議論などするようなやぼは決してやらなかったが、佐久間のほうは まるで反対で、顔つきからしてすでに一種奇妙なのに、平生どんすの羽織に古式模様の袴をはいて、 いかにもおれは天下の師だというように厳然とかまえこんで、元来勝ち気の強い男だから漢学者が来ると 洋学をもっておどしつけ、洋学者がくると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生がたずねてきても、 じきにしかりとばすというふうで、どうも始末にいけなかったよ。 索引名に戻る ○ 藤田 東湖のこと 藤田東湖は、おれはだいきらいだ。あれは学問もあるし、議論も強く、また剣術も達者で、ひとかど役に たちそうな男だったが、ほんとうに国を思うという赤心(まごころ)がない。もしも東湖に赤心があったら、 あのころは水戸は、天下の御三家だ。 直接に幕府へ意見を申しいずればよいはずではないか。それになんぞや、かれ東湖は、書生を多数集めて 騒ぎまくるとは、実にけしからぬ男だ。おれはあんな流儀は大嫌いだ。 おれなどは、一つの方法でいけないと思ったら、さらに他の方法を求めるというふうに、議論よりは とにかく実行でもって国家に尽くすのだ。 毎度いうことだが、かの大政奉還の計を立てたのも、つまりこの精神からだ。しかしながら実際おれの 精神を了解して、この間の消息に通じているのは、西郷一人だったよ。榎本(武揚)でも大鳥(圭介)でも 昔はおれを殺そうとした連中だが、今になってはかえって、頭を下げておれの処へくるのがおかしい。 しかしおれも「皆さん偉くなった」と言っておくのさ。 この間は20年ぶりで慶喜公にお目にかかったが、その時はおれは「よいことは皆さんご自分でなさった ように、悪いことはみな勝がなしたように、世間へおっしゃい」と申しておいたよ。 索引名に戻る
○ 木戸 孝允のこと木戸松菊(しょうぎく)は、西郷などに比べると、非常に小さい。しかし綿密な男さ。使い所によっては ずいぶん使える奴だった。あまり用心すぎるので、とても大きな事には向かないがのう。 かつて京都で会った時、かれが直接におれに話して聞かせたことがある。元冶元年の7月に、蛤御門の変 があったのちで、あの男は会津藩の邏卒(らそつ)に捕らえられて、多数の兵卒に護衛されながら、寺町 通りまできたちき、大便を催したから厠いかせてくれといった。 するとほかのこととは違うから、衛士も許さぬというわけにもいかず、止むなく2、3人の兵卒を随えて 厠へいかせた。 ところが木戸は厠の前までくると、地べたへつくばってはかまをぬぐようなふうをしていたが、いきなり 脱兎(だつと)の勢いでその場を逐電した。 あまり意外なことだから、衛卒もしばらくぼうぜんとしていた間に、木戸は早くも対州の藩邸へ逃げ込んで いったんその踪跡(あと)をくらまし、しばらくして、また、ある他の屋敷へ潜伏して、ついに逃げおお せたということだ。 あの男が事に臨んで敏活であったことは、まあこういうすうだったよ。 それからあの男が下関で兵士を鎮撫していた時分に、ある人へ送った清元がある。 そこでなぶっられ、ここではせかれ、主の心に誠があらば、つらい勤めもいとやせぬ。 こういうんもだが、どうだ。 寓意がわかるかね。 索引名に戻る ○ 島津 斉彬公のこと 斉彬公(順聖)は、偉い人だよ。西郷をみぬいて、庭番に用いたところなどは、なかなか偉い。 おれを西郷に紹介したものは、公だよ。 それゆえ、20年も以後に[実際は7年後?]、初めて西郷に会ったときに、西郷は既におれを信じていたよ。 あるときおれは公と藩邸の園を散歩いていたら、公は2つのことを教えてくださった。 それは、人を用いるには、急ぐものではないということと、1つの事業は、10年経たねばとりとめの つかぬものどということと、この2つだったっけ。 索引名に戻る ○ 小栗 上野介のこと 小栗上野介(忠順)幕末の一人物だよ。精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の大勢にもほぼ通じて、 しかも誠忠無二の徳川武士で、祖先の小栗又一(またいち)によく似ていたよ。 一口でいうと、あれは、三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、 あの人のためには惜しかった。 小栗は、長州征伐を奇貨として、まず長州を倒し、つぎに薩州を倒して、幕府のもとに郡県制度をたて ようと企て、フランス公使レオン・ロセスの紹介で、仏国から銀六百万両と、年賦で軍艦数艘を借り受 ける約束をしたが、これを知っていたものは、慶喜公ほか閣老を始め4、5人に過ぎなかった。 長州征伐がむつかしくなったから、幕府は、おれに休戦の談判をせよと命じた。そこで、おれが江戸を たつ1日前に、小栗がひそかにおれにいうには、「君がこんど西上するのは必ず長州談判に関する用向 きだろう。もししからば、実はわれわれにかようの計画があるが、君もさだめて同感だろう。ゆえに、 あえてこの機密を話すのだ」 といった。 おれもここで争っても益がないと思ったから、ただ「そうか」 といっておいて、大阪へ着いてから、閣老 板倉(伊賀守)にあって、「承ればかくかくのご計画がある由だが、至極ご結構のことだ。しかし天下の 諸侯を廃して、徳川氏が一人存するのは、これは天下に向かって私を示すのではないか。閣下ら、もし さほどのご英断があるなら、むしろ徳川氏まず政権を返上して、天下に模範を示し、しかるうえにて、 郡県の統一をしてはいかが」、といったところが、閣老はびっくりしたよ。 そうするうちに、慶応3年の12月に仏国から破談のしらせがきた。 あとでフランス公使がおれに、「小栗さんほどの人物が、わずか六百万両くらいの金の破談で、腰を 抜かすとは、さても驚きいったことだ」 といったのをみても、このとき、小栗がどれほど失望したかは しれるよ。小栗は、わずか六百万両のために徳川の天下を賭けようとしたのだ。 越えて明治元年の正月には、早くも伏見鳥羽の戦いが開かれ、300年の徳川幕府も瓦解した。 小栗も今は仕方のないものだから、上州の領地へ退居した。それをかねて小栗を憎んでいた土地の博徒 や、また小栗の財産を奪おうという考えの者どもが、官軍へざん訴したによって、小栗はついに痛ましい 最期を遂げた。 しかしあの男は、案外清貧であったということだよ。 索引名に戻る ○ 山岡 と 大久保 一翁のこと 山岡鉄舟も、大久保一翁も、ともに熱性で、切迫のほうだったから、かわいそうに若死にをした。 おれはただずるいから、こんなに長生きしとるのさ。 索引名に戻る ○ 二宮 尊徳のこと 二宮尊徳には、一度会ったが、いたって正直な人だったよ。だいたいあんな時勢には、あんな人物が たくさんできるものだ。 時勢が人を作る例は、おれは確かにみたよ。 索引名に戻る ○ 鍋島 閑叟候のこと 肥前の鍋島閑叟(かんそう)候は、名高い名君だが、たいへん陽明派の学問に達しておられたと いうことだ。 文久3年の正月には、将軍家文武の補導を命ぜられて、ときどき江戸城において将軍を訓導せられたのは、 大名の中でも昔から例がないことだ。 候が、一生国事に奔走せられてことは、いまさらいうまでもなく世間に知れ渡っている。 索引名に戻る ○ 江川 太郎左衛門のこと 江川太郎左衛門も、またかなりの人物であった。その嘉永・安政のころに海防のために尽力した ことはだれも知っているだろう。 この男は、山の中で成長して、常に遊猟などをして筋骨を練り、明け暮れ武芸に余念なかった。 しかし、人の知らないうちに心がけていたとみえて、あるとき水戸の屋敷に召された、烈候から 琴を一曲と所望さられたのを、再三辞したけれども、お許しがないからやむを得ず一曲演奏したが、 その音ゆうようとして迫らず、平生無骨なのにも似ないで、いかにも巧妙であったから、列座の ものが手を打って感嘆したということだ。 索引名に戻る ○ 山内 容堂公のこと 土佐の山内容堂公は、天資豪宕(てんしごうとう)、襟懐洒落(きんかいしゃらく)、真に英雄の資を 備えていられた。 平生の議論も、人の意表にでることが多かったが、それのみならず、公は、文詩、書、画などの余技に さえ巧みであって、老儒巨工(ようじゅきょこう)もなかなかおよばなかったということだ。 索引名に戻る ○ 岩倉 具視公のこと 岩倉具視公は度量が大きくて、公卿の中でも珍しい人物であったよ。おれにさえ平気で政治上のことを いろいろ諮問せられたが、明治2年に、おれに送られた手紙にはこういうことが書いてある。 寒冷の砌、先ずもって御壮健、欣然(うれしく)候。然れば近頃御苦労の至りに存じ候えども 深く御懇談申し入れたき筋これあり候につき、今夕または明朝、来臨相成らずや。 少々御所労にも承り候えども何卒押して御出頭これあり候よう致し度く、よって早々かくの ごとくに候なり。 具視 今から当時のことを追想すると、おれも感慨にたえないよ。 索引名に戻る ○ 高島 秋帆のこと 高島秋帆(たかしま しゅうはん)というのは、日本で銃陣の最初の人だ。 通称を四郎太夫といって、大々長崎の町年寄りであったが、あるときドイツの一武官が長崎へ来たのに あって、いろいろ軍事上のことを聞き、初めて西洋に銃陣と言うものがあるのを知って、日本の武器は、 とてもこれにはおよばないことを悟った。 そこで秋帆は世間の人のそしるのをも頼みず、自分の財産をなげうって、この銃陣というものを習い、 大いに得るところがあった。ついては、その成績を見分けしてくだされい、と幕府へ願い出たので、 幕府もこれを許して、武州徳丸原において、実施演習をやらせてみた。 ところが旧来の兵術家は、もちろんいろいろと非難したけれど、諸藩士の中で多少天下の形勢がわかって いる人は、いずれも感服してその門に入れ、弟子の礼をとった。 幕府の方でも、勢いこれを排斥することもできないから、ついに江川、下曾根[金三郎]の両砲術家を 同じく秋帆の門に入らせることになり、秋帆の名もおいおい広まってきたところが、これは改革時代の 先輩にはとかくありがちのことだが、秋帆もとうとう保守家のつげ口にあって、家財は没収せられ、 自分は罪人の恥をうけるようになった。しかしながら真理の前に敵はない。 秋帆の不幸も一時のことで、しばらくたつとまた用いられて、講武所の師範役になった。 とにかくあれは具眼の士さ。 索引名に戻る ○ 沢 太郎左衛門のこと 沢太郎左衛門もおれの昔からの友達で、おれよりはまだ余程若いはずであったが、とうとう死んでしまった。 あれは、昔、おれから歩兵の調訓を受けものだが、その後おれは長崎へいって、いろいろやっているうちに、 あれも海軍の方へまわされて、同じ長崎へやってきて、蘭学のけいこなどを始めたが、なかなかの勉強家で、 書生の間でも指折りの才子だといった、教師も常にほめていた。 そうこうするうちに、幕府は海軍や学術研究生をオランダへ派遣することになったので、沢も榎本、林、 赤松、真木などいう連中とともに欧州へ留学を命じられた。 このころ長崎で海軍の修業をしておった書生は、ずいぶんたくさんあって、中でもわざわざ選抜せられて 海外へ留学を命ぜられるのだから、この一組は、とにかく優等生ばかりであった。 そこで、これらの連中はいずれも四、五年ぐらいオランダで勉強して帰ったが、もう学問もほぼ成就して いたから、それぞれひとかどの役目を務めえたので、例の咸臨丸のごときも、外国人の手を借りないで、 無事に太平洋を乗りまわして帰ってきたのだ。 そこで、このごろは、すでに築地に海軍の練習所が建ててあったから、まずさしあたり、新帰朝者を この方へまわして、兵学の教師をさせることになった。しかし兵学の教師などといったところが、今から 考えてみれば、教える方も教えられて方もまるで夢中さ。 とかくするうちに、世の中は勤皇論や佐幕論で、だんだん物騒になってきたので、今の連中もそれぞれ 見るところによって方向を定めなければならない。さあこうなってくると、この連中の間で戦争する というものと、せぬというものと、すなわち主戦論と、非戦論との二派に分かれた。 それで沢は、榎本らと函館の脱走組となって、主戦論の原動者となったが、函館の戦いに負けて、榎本、 大鳥らを始めとして、主だった面々は、皆捕縛せられてしまった。 それからしばらくするうちに、天下は治まり、世はおいおいヨーロッパの新文明を移植することと なってきた。そこで、築地に分明流儀の海軍兵学校ができたが、このときの校長ともいうべきものは、 今の海軍中将中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)で、その時分には、これを学校の頭取といっていた。 沢も、そのときは、もはや許されていたから、人材登用の仲間入りをして、兵学の教官となって、 しばらく育英の事業に一身を投じていた。 おれは、この時分海軍卿をしていたけども、おれの流儀として、大体のことばかりに眼をつけて、細かい ことには、一向むとんちゃくであったから、当時の事情は、あまりよく知らなかったが、しかしこの 学校からは、ずいぶんたくさんの人物を出したかと思う。 そののち沢も、今がよい時機だといって学校を辞職したが、元来あれは財産があったから、その時、静かに 晩年を楽しんでいた。見なさい。沢らの手で仕立て上げられた海軍兵学校の卒業生で、今は海軍の枢機に あずかっているものもたくさんあるが、皆いやに豪傑ぶった顔をしているから、おかしくなるよ。 索引名に戻る 以上『勝海舟全集 第14巻 氷川清話』より 元 に 戻 る |
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