勝 海舟 人脈評
勝 海舟
関係者 人脈評
◎本人
勝 海舟:かつ・かいしゅう:義邦:麟太郎:1823年−1899年
◎家族
小吉:こきち:父:1802年(享和2)−1850年(嘉永3)
旗本男谷平蔵の3男として生まれる。通称左衛門太郎
勝家に養子として入って小吉と名乗る。小吉は小普請組で一生を終わった。
信:のぶ:母:−1870年(明治3)
はな:妹
幕臣、山本代助と結婚
順子:妹
ペリー来航の前年、佐久間象山と結婚した。
◎家人
杉 亨二:すぎ・こうじ:(文政11)−1917年(大正6):
長崎出身。長崎で宇田川榛斎(はんさい)の「医範提鋼」(いはんていこう)を読んで蘭学を始める。
長崎で喧嘩をして、大阪の緒方洪庵の「適々斎塾」に2ヶ月間程いた。その後江戸に出てきて、
江戸には大小80の蘭医がいて、その内30が塾を開いていたが、杉は勝塾の塾頭になり,
その後も勝家を世話をする。
長男小鹿のアメリカ留学の際など,特に勝家の会計まで面倒を見る。
維新後は,統計局勤務。帝国学士院会員。法学博士の肩書きを持つようになる。
◎女性
民:たみ:妻:文政4−明治38:
元町の炭屋、砥目茂兵衛の娘で,幕臣 岡野孫一郎の養女として海舟に嫁ぐ
梶 久子:かじ・ひさこ:長崎海軍伝習所時代に親しくなる
増田 糸:いと:京都で知り合い,海舟の家人になる
小西 かね
森田 米子
香川 豊:とよ
ふさ
なか
たけ
◎子供
夢:ゆめ:長女:1846年(弘化3)−?
孝:たか:次女:184年(嘉永5)−?
幕臣、疋田正膳に嫁ぐ。
小鹿:ころく:長男:1852年(嘉永5)−1892年(明治25)
海舟が赤坂田町で蘭塾を開いていたころ、長男として誕生。海舟は次代をになうべき海軍軍人として、
幕府に小鹿の自費留学を願い出て、許されると慶応3年(1867)7月渡米、大政奉還、戊辰戦争の
動乱期をアナポリス海軍兵学校で過ごし、明治10年(1877)に帰国、翌年海軍大尉に任官した。
しかし、生まれつき病弱で、医療に手を尽くした海舟だが、甲斐なく海舟より早く死去。
後継者に死別した海舟は、その激しい衝撃に老い衰えていった。
四郎:次男:1854年(嘉永7)−1866年(慶応2)
逸:いつ:三女:増田いと:1860年(安政7)−?
目賀田種太郎に嫁ぐ
八重:やえ:四女:増田いと:?
梅太郎:三男:梶久子:1864年(文久4)−?
榎本武揚の姪、田崎このを娶る。
七郎:四男:小西かね:1866年(慶応2)−?
たへ:5女:香川とよ:?
精:くわし:徳川慶喜の子を養子にもらい、勝家を継がせる。
◎師
佐久間 象山:さくま・しょうざん:啓:修理:1811年(文化8)−1864年(元治1):
松平藩:開国を主張した尊大な西洋兵学者。海舟の兵学の師であり,妹順子の夫でもある。
幼少の頃より英才の評判が高く、 天保10年(1839)藩主真田行貫が海防掛老中に任じられる
と象山はその相談役に用いられた。
来日のぺりーが一礼した唯一の日本人という風貌の持ち主で、鬼気怪人的なところがあり
出生できなかったものの,登用されるととたんに京都で肥後勤王党の河上彦斎に斬られた。
門下生には勝海舟,吉田松陰、橋本左内、河井継之助が居る
島田 虎之助:しまだ・とらのすけ:剣術の師
豊前中津藩士。江戸に出て男谷精一郎の門弟となり、浅草新堀に道場を開く。海舟は島田の道場に住込み
師のすすめで禅の修行を始める。
また、島田のすすめで海舟は新しい時世に役に立つ蘭学の勉強も始めた。
永井 青崖:ながい・せいがん:助吉:蘭学の師
黒田家の家中、藩主松平美濃守斉薄(なりひろ)は、島津斉興の叔父にあたる。
◎将軍
徳川 家斉:第11代:1773年−1841年:御三卿「一橋家」の治済の長子。
第10代将軍。家冶の急死で将軍家の養子になり、第11代将軍になる。在職50年に及ぶ。
徳川 家慶:第12代:1793年−1853年
水野忠邦を中心に天保の改革を断行。ペリー来日の折りに死去。
徳川 家定:とくがわ・いえさだ:第13代:1824年(文政7)−1858年(安政5):家慶の第4子。
生来病弱のため跡継ぎがなかったため、将軍跡継問題をめぐり徳川慶福(家茂)を推す紀伊派と
一橋慶喜を推す一橋派が対立。阿部正弘、堀田正睦ら老中が政治に当たる。おりしもペリー来航し、
開国を求めるといった難局が相次ぎ、政情は開国と攘夷に別れて紛争。
家定は、大奥・譜代大名の意見を聞きいれ、井伊直弼を大老に任命して、井伊直弼は徳川慶喜を推す
一橋派を押さえて、紀州派の徳川家福を跡継ぎに決定。
徳川 家茂:とくがわ・いえもち:第14代:1846年(弘化3)−1866年(慶応2):
将軍家定の継嗣をめぐって一橋慶喜と対立するが、大老になった井伊直弼らに擁立されて将軍になる。
海舟は、神戸海軍伝習所の開設に心良く引き受けた家茂には、旗本であった事を感激して喜んだ。
孝明天皇の妹和宮と結婚で和宮降嫁問題を引き起こす。公武合体政策を推進したが、第二次征長戦争中に
大阪城で病死。
徳川 慶喜:とくがわ・よしのぶ:第15代:1837年(天保8)−1913年(大正2):
徳川幕府に幕を下ろした徳川最後の将軍。将軍時代1日として、江戸城で暮らしたことの無い将軍。
◎天皇
孝明天皇:こうめい・てんのう:1831年(天保2)−1866年(慶応2):
第121代天皇。仁考天皇の第4皇子。在位19年。明治天皇の父。幕府の弱体化、外国船の来航と
緊迫した情勢を憂い、外交海防に関する勅を下す。
安政の大獄が始まると、朝廷・攘夷への圧迫が強化されるが、孝明天皇は攘夷と公武合体の立場を取り、
皇妹・和宮の将軍・家茂への降嫁を容認する。しかしこれが尊攘派の怒りを買い、降嫁を計った安藤信正
が襲撃される坂下門外の変がおきる。
第二次長州征伐中に急死。討幕派による毒殺との一説がある。
明治天皇:1852年(嘉永5)−1912年(大正1)
◎朝廷
三条 実美:さんじょう:1837年(天保8)−1891年(明治24):
尊擾派の中心的公家。長州藩との提携で攘夷実現に努めたが、文久3年8月18日の政変で失脚、
七卿落ちの一人として長州に逃れ、慶応1年大宰府に移された。
1867年の王政復古に際して帰京、新政府の要職に就く。
岩倉 具視:いわくら・ともみ:1825年(文政8)−1883年(明治16):
堀川前権中納言康親:朝廷の権威復活に疾走した策略公家。
文久2年(1862)日米修交通商条約の勅許に88人の公家列参で反対し、公武合体をとなえて和宮
降嫁を推進し、尊攘派から「四奸」の一人と目された。尊攘派から逃れるため'62年8月、官を辞して
仏門に入り岩倉村に蟄居した。その間に薩摩藩士らと討幕運動を推進、慶応3年(1867)大久保利通
らと王政復古クーデターを敢行、維新政権の中心人物となり、議定、副総裁、大納言などを歴任、廃藩置県
を断行した。
1871年(明治4)右大臣となり、特命全権大使として、大久保利通、伊藤博文と共に、欧米12か国
を視察、帰国後、征韓論に反対して退けた。'74年赤坂食違の変で負傷する。天皇制確立を意図し、
明治14年の政変後、憲法調査のため伊藤博文をプロシアに派遣した。
権謀術数の政治家と評される。
姉小路 公知:あねがこうじ・きんもち:1839年(天保10)−1863年(文久3)
海舟は、海軍操練所を幕府だけでなく諸藩と共に構成する「一大共有の海局」の構想を持った。彼が朝廷へ
働きかけるための目当てに選んだのは、攘夷派の実力者、25歳の少壮公卿姉小路公知であった。姉小路は
「海軍のあらざれば、本邦の警衛たちがたし」と説く海舟の意見に心を傾け、文久3年幕府軍艦順動丸に
乗り、海舟の案内で神戸、大坂を回り、摂海警備への熱意を示した。
外国に劣らない海軍を作ると、という意見と構想を直ちに朝廷内で解いて回ったが、同年5月20日
朔平門外猿ケ辻で暗殺された。
和宮 親子:かずのみや ちかこ:1846年(弘化3)−1877年(明治10):
仁孝天皇の皇女親子内親王、母は藤原經子(つねこ)、孝明天皇の妹。文久1年4月19日内親王となる。
文久1年征夷大将軍徳川家茂の御台所として東下、慶応2年落飾、静寛院となる。公武合体の犠牲者
「海舟と和宮」
◎幕臣・諸藩
松平 慶永:まつだいら・よしなが:春巌(しゅんがく):1828年(文政11)−1890年(明治23):
越前福井藩主:御三卿の一つ田安家に生まれ、福井藩主に迎えられ、財政再建と藩校「明道」創設など、
藩政改革を推進。同じ御三卿の一橋慶喜を継嗣問題で推し、井伊直弼大老就任後、紀州徳川慶福(家茂)
が将軍に決定したことから、隠居、謹慎の処分を受ける。のち「桜田門外の変」後,政事総裁職に就任し,
公武合体・幕政改革に尽力する。大久保一翁の進言を受け、慶喜に政権返上を説いて、実現された。
大久保一翁,海舟,橋本左内,横井小楠経ちを積極的に登用した。
大久保 忠寛:おおくぼ:一翁(いちおう):右泉:志摩守,越中守:1817年(文化14)−1888年(明治21):
11代将軍から15代将軍にに仕える。海舟の大砲鋳造の姿勢に勝海舟の名前を知り,1853年海舟の
意見書にて勝家を訪問,その後海舟を登用する。海舟の政治的なバックアップ者。
開国派の大久保は、井伊大老に罷免された。
井伊大老亡き後は、幕政に復帰して、御側御用取次の要職に就き、政治総裁職となる松平春嶽と交わり
大政奉還を説いた。俗に大政奉還は、坂本龍馬が「船中八策」として後藤象二郎に話したと言われるが、
それより5年も早くに大久保一翁は、政治総裁職の松平春巌に話していたのだ。
江戸城開場時には,陸軍総裁の海舟と,会計総裁の一翁が,二人三脚で進めた。
維新後は、東京府知事、元老院議官に上る。
中根 雪江:師質:靫負:1807年(文化4)−1877年(明治10年):福井藩士
福井藩主松平春嶽の側近として、一橋慶喜擁立や、公武合体策を支えた。
維新後は新政府に参与、内国事務局判事となった。その記録『昨夢紀事』『再夢紀事』『丁卯日記』
『戊辰日記』は貴重。
横井 小楠:よこい・しょうなん:時在:平四郎:1809年(文化6)−1869年(明治2):
熊本藩士:熊本藩では小楠の才能を生かしきれず,どちらかと言うと厄介者扱いされていたが,
50歳松平春巌に招聘されて,才能を発揮。近代的国家への改革をめざした優れた思想家。
海舟から「俺は今までに天下で恐ろしい者を2人見た。それは小楠と西郷だ」といわしめた人物。
松平 容保:まつだいらかたもり:1835年(天保6)−1893年(明治26):
会津藩第9代藩主:美濃高須藩主・松平義建の6男。会津藩主第8代・容敬の養嗣子となり、会津松平を
継ぐ。兄の慶勝は尾張藩主、弟の茂栄は一橋家当主、定敬は桑名藩主にそれぞれ養子として入り、容保を
加えて、「高須4兄弟」と呼ばれた。
1862年(文久2)「京都守護職」に任命され、弟の定敬・「京都所司代」と共に、「禁裏守衛総督」の
慶喜を支える。鳥羽・伏見の戦いの後は、会津で、討幕軍に徹底抗戦するが、敗退し、降伏する。
朝敵にならざるをえなかった悲劇の会津藩主。
高野 長英:たかの・ちょうえい:譲:瑞皐:蘭学医:1804年(文化1)−1850年(嘉永3):
水戸藩士:1820年(文政3)江戸に出て、杉田伯元、吉田長叔にオランダ内科を学び、長崎に行き
シーボルトに師事。天保1年江戸に戻り蘭医を開業する。
1839年(天保10)「夢物語」で幕府を批判して投獄される。(蛮社の獄)
江戸大火災時に脱獄し,1850年9月頃、「沢伯三」と偽名にて海舟宅を訪れ、勝海舟に
庇護を求めてきたが,勝は
「幕臣のはしくれ,法に背けない」と拒む。
1カ月後,捕捉され自殺。
高橋 謙三郎:泥舟:たかはし:政晃:伊勢守:1835年(天保6)−1903年(明治36):
槍術の大家。幕末の三舟の一人。義弟に、山岡鉄太郎が居る。講武所教授・師範となり文久3年(1863)
浪士組結成に際し浪士取扱、慶応2年(1866)遊撃隊頭取となり、戊辰戦争では徳川家の赦免と
救済のため奔走した。
維新後は東京で隠棲する。
山岡 鉄太郎:やまおか・てつたろう:高歩:猛虎:鉄舟:1836年(天保7)−1888年(明治21):
小野家生まれ。幕末の三舟の一人。:身長190cmの巨漢で、「鬼鉄」の異名をもつ剣豪。講武所剣術の教授方
世話役となり、文久3年「新選組」の前身、「鎮撫隊」の組長として200人からの荒くれを引き連れて、
京都に登る。
肝物の海舟を殺そうともしていたとの噂もあって、一時は海舟は逢おうともしなかった。が山岡の赤心が
海舟を動かし、江戸城無血開城の道を切り開く。
維新後は、静岡藩権大参事を経て新政府に出仕、明治天皇の側近となり、侍従、内宮少輔を歴任する。
山岡 鉄舟 略歴
井伊 直弼:いい・なおすけ:1815年(文化12)−1860年(安政5):
彦根藩主:第11代井伊直中14男。嘉永3年藩主となる。安政5年大老職に就き、条約調印・安政の
大獄・幕政を牛耳った。
咸臨丸における渡米は、井伊の独断により決定する。しかし、海舟が帰国する前、桜田門外で暗殺される。
川路 聖謨:かわじ・としあきら:三左衛門:敬斎:1801年(享和1)−1868年(明治1)
豊後生めれ。勘定吟味役、佐渡、奈良、大坂町奉行を歴任。嘉永5年(1852)勘定奉行兼海防掛となり
プチャーチン来航時には、全権大使として活躍する。安政5年(1858)堀田正睦に随従して上京。
日米修交和親条約勅許獲得に奔走したが、井伊直弼の大老就任と共に一橋派に属する川路は、
安政の大獄で、免職・蟄居に処せられる。
文久3年(1863)外国奉行に復職し、江戸城開城の翌日自殺した。
小栗 忠順:おぐり:又一:豊後の守から上野介と改める:1827(文政10)−1868年(明治1):
海舟が咸臨丸で渡米する時の正史の目付けとして同行する、英才の誉れ高い史僚として幕閣に顕れる。
帰国後は、外国奉行・勘定奉行・歩兵奉行、陸軍奉行・軍艦奉行等を歴任。軍艦奉行の時フランスの援助を
求め横須賀製鉄所の建設を企て、幕府の勢力の強化を図った。
大政奉還後、強硬な主戦派の小栗は、慶喜の裾を引っ張ってまで主戦論を説いたため、江戸時代、将軍
自ら直接免職されると汚名を受ける。
この後知行所である、上州権田村に退いて再挙の時を待ったが、閏4月新政府の東山道軍に捕らえられて、
斬首された。
海舟らの政敵であった小栗はまた、新政府軍には生かしておいては危険きわまりのない有能な人物だった
のである。
安藤 信正:あんどう・のぶまさ:信睦:信行:1819年(文政2)−1871年(明治4):
老中陸奥磐城平藩主。寺社奉行、若年寄から安政7年(1860)老中・外国事務取扱になる。同年3月
井伊直弼が暗殺されると、幕政を担った。開国、公武合体策を推進し、皇女和宮の降嫁に尽力。
このため文久2年(1862)1月江戸城坂下門外で水戸藩士6人に襲撃され、賊の一刀は信正の乗るかごを
貫いたが、背中にわずかに傷を付けただけにとどまっり、逆に賊の6人はその場で斬り伏せられ、
桜田門外の変の二の舞は避けることができた。
しかし、背中の傷は武士にあるまじき「後ろ傷」だとみなされやむなく4月老中を辞任した。
戊辰戦争では、奥羽越列同盟に参加し、官軍に抵抗したが、処罰された。
阿部 正弘:あべ・まさひろ:伊勢守:1819年(文政2)−1857年(安政4):
備後福山藩主。25歳で老中に就任、弘化、嘉永、安政期の幕政を指導した。ペリー来航に際しては、
老中首座をして朝廷、諸大名、幕臣へ諮問するなど協調政策を取り、1854年(安政1年)日米和親
条約を締結する。
攘夷を排して開国をすすめる阿部は、人材登用など幕政改革を徒頭大久保一翁を海軍係目付に抜擢し、
海舟もまた大久保一翁に認められ幕政に活動の場をあたえられるようになった。
堀田 正睦:ほった・まさよし:1810年−1864年:
幕末の老中:下総佐倉藩主:相模守正時の子。家斉、家慶、家定の3代に歴任。安政2年阿部正弘に継ぎ、
老中になり、ペリー来航の難事業に対処する。また、初代駐日領事館ハリスと日米修好通商条約を協議し、
その翌年、条約調印の勅命を得ようと上洛したが失敗し、勅命を得ずに条約を締結する。
井伊直弼が大老に就任したため、老中を説かれた。
◎咸臨丸
松本 良順:まつもと・りょじゅん:医師:1832年(天保3)−1907年(明治40)
下総佐倉の藩医、佐藤泰然の息子で、19歳の時、長崎のポンベ軍医について医学の勉強をする。
医学所頭取で将軍家茂の侍医であり,海舟の心の医師でもあった。
特に,慶喜に裏切られ何度も挫ける海舟に,
「おまえがやらなきゃ,誰がする」とハッパをかけた。
良順が居なければ,江戸城無血開城に際しても,勝は慶喜の命に従わなかったかもしれない。
良順とは、長崎の海軍伝習所で蘭医ポンペを通じ知り合う。
良順の姉上の娘が、榎本武揚へ嫁に入っている。歳は4つ違いでも、叔父貴にあたる。
榎本 武揚:えのもと・たけあき:釜次郎:梁川:1836年(天保7)
−1908年(明治41):
直参旗本の生まれ:昌平坂学問所を経て中浜万次郎の塾に学んだ秀才で、安政3年(1860)長崎
海軍伝習所の2回生に選ばれた。1期生に引き続いて指導にあたった海舟の下で、武揚は航海、運用、
戦術を学んだ。特に、蒸気機関や機械製造に興味をおぼえる熱心な生徒だった。
文久2年(1862)オランダに留学して兵制、法律を研修し、帰国後、慶応4年1月海軍副総裁に上った。
戊辰戦争では、政府軍の東征にのぞんで、江戸城の無血開城をはかる海舟に対して、海軍副総裁の榎本は、
強硬な主戦論を唱えた。政府軍から軍艦引渡しを命じられると、これを拒んだ榎本は、開陽丸以下の
旧幕府艦隊をひきいて脱走し、海舟がその調停役をまかされた。海舟の提案にそい、輸送船などを一時的
に政府軍に引き渡した後、結局、仙台に寄って、旧幕府脱走隊を糾合して、蝦夷地箱館に向かった榎本は、
箱館、五稜郭を占領し、そこで独立政権を樹立、日本で始めて選挙による政府を作り、一時は諸外国も
認知した。
明治2年、箱館戦争に破れ、薩摩の黒田の勧告によって降伏する。
その後、'72年罪を許され、黒田の庇護の下、開拓使4等に出仕をふりだしに、'74年特命全権
公使としてロシアへ赴き、翌年、樺太・千島交渉条約を締結。'80年駐清公使。以後、逓信、文部、外務
農商務の各省大臣を歴任、幕臣ながら海舟同様、新政府の顕官となって優れた業績を上げた。
中浜 万次郎:なかはま・まんじろう:ジョン:1827年(文政10)−1898年(明治31):
通訳として咸臨丸に乗る。
木村 喜毅:きむら・よしたけ:1830年(天保1)−1901年(明治34):
摂津守:長崎海軍伝習所第2期校長。長崎に残った幹部の海舟を癇癪持ちの不満分子と思っていたが、穏健な
木村はそつなく勤めを終え、帰府して軍艦奉行になった。再び海舟と共にするのは条約批准の遣米使節に
随従する咸臨丸で、木村提督のもと海舟が艦長を勤めて、無事大任を果たすことが出来た。
咸臨丸で渡米の際には,3000両を家財を売り用意し,さらに幕府から500両を借り,提督として乗り込む。
帰国後,大海軍計画を提出するものの,海舟に一笑され流れる。
維新後は、新政府に仕官することを辞し、芥舟と号して余生を楽しんだ。
福沢 諭吉:ふくざわ・ゆきち:1834年(天保5)−1901年(明治34)
木村喜毅の従者として咸臨丸に乗り込む。明治に入り,木村が一切明治政府との関係を絶ったことに対し,
海舟が要職に着くことに対し,「痩せ我慢の説」で海舟を批判した。
永井 尚志:ながい:
幕府創設の海軍兵学校,長崎海軍伝習所の初代校長。
◎土佐藩
坂本 龍馬:さかもと・りょうま:1835年(天保6)−1867年(慶応3):
海舟の門下生
岡田 以蔵:おかだ・いぞう:1838年(天保9)−1865年(慶応1):
暗殺に狂奔した用心棒。江戸に出て、鏡新明智流桃井春蔵の道場で剣を学ぶ。土佐勤王等の武市半平太に
師事し、天誅の名の下に暗殺を重ね「人切り以蔵」の異名で怖れられた。
海舟を師事する坂本龍馬から海舟を紹介された後は,「人切り以蔵」から,海舟の護衛役となって上洛し、
文久3年3月高瀬川沿いの木屋町で、海舟を襲う3人組みの刺客と出遭い、一人を斬り倒した。
その後、海舟に「人を斬るのは良士のなすべき所にあらず」と戒められ人間的に目覚め,おとなしく
土佐藩に捕まり惨殺される。
中岡 慎太郎:なかおか・しんたろう:道正:迂山:1838年(天保9)−1867年(慶応3)
文化1年武市の土佐勤王党に加わり、弾圧が始まると、脱藩して長州に走る。長州の変革を見て、
尊攘論から富国強兵、倒幕論に転向し、坂本と共に薩長同盟を成功させる。
慶応3年脱藩を許させ、京都で陸援隊を組織し、土佐藩の遊軍となる。大政奉還後の11月15日の夜、
京都の近江屋で坂本と共に刺客に遇い、翌日死亡する。
板垣 退助:いたがき・たいすけ:正形:旧姓、乾:1837年(天保8)−1919年(大正8年):
藩を討幕派にまとめ、戊辰戦争では、東山道先鋒総督府参謀などをつとめ惨禍,会津攻略を指揮する。
1869年高知藩大参事となり藩改革を行う。西郷隆盛らと廃藩置県を実施、明治4年参議に就くが、
征韓論に破れ参議を辞職し下野。'74年愛国公党を結成し政府に民撰議院設立建白書を提出、のち高知
で立志社を創立した。一時参議に復したが辞職し立志社の経営にあたる。
'78年再興愛国社に参加、自由民権運動のなか国会開設を求め全国遊説を行い、'81年自由党を結成、
総理になる。翌'82年岐阜に遊説中暴漢に襲われ負傷。同年周辺の反対にもかかわらず外遊に出る。
'82年帰国。'84年自由党を解散した。
'87年伯爵。'90年大同団結運動の分裂後、愛国公党を結成し、ついで立憲自由党総理になる。'96年
第2次伊藤博文内閣、'98年大隅重信と隅板内閣をつくり内相をつとめる。
後藤 象二郎:ごとう・しょうじろう:元曄:暢谷:1838年(天保9)−1897年(明治30):
山内容堂の信頼厚く、佐幕派の後藤は、尊攘派を弾圧する。しかし、藩の将来を考えて、坂本竜馬を
土佐藩に戻し、亀山社中を「海援隊」として、利用する。更に坂本竜馬の「船中八策」をもとに大政奉還
の建白を容堂に勧め、慶喜に建白させた。
明治維新後は、参与、工部大輔、左院議長、参議などの要職を歴任。明治6年の征韓論に破れ、官を辞職。
その後は、板垣退助らと自由民権運動に加わる。黒田内閣の逓信大臣、第二次伊藤内閣の農商務大臣と
なる。
山内 容堂:やまのうち・ようどう:豊信:1827年(文政10)−1872年(明治5):
土佐第15代藩主。吉田東洋らを登用して藩政改革を断行。将軍継嗣問題では、松平春巌らとともに
一橋派に属し、「安政の大獄」で謹慎処分を受ける。1862年幕政改革で幕政参与、のち朝議参与
となり、公武合体を推進する。
海舟に坂本龍馬達を預け,後藤象二郎の意見を入れ「大政奉還」を建白した。
吉田 東洋:よしだ・とうよう:正秋:1816年(文化13)−1862年(文久2):
土佐藩の家老。ペリー来航の際、土佐藩意見書を起草して参与に就任したが、安政1年に失脚。
小林塾を開いて後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎与太郎らを教育し、安政4年復職するや後藤、福岡、乾(板垣)
退助ら新おこぜ組を登用、藩政改革を断行した。そのため保守派の反発は強く、また尊王攘夷派からも
憎まれ、文久2年、勤王党の那須信吾らに暗殺された。
武市 半平太:たけち・はんぺいた:小楯:瑞山:1829年(文政12)−1865年(慶応1):
文久1年江戸に遊学し、諸国の尊攘派志士と交わり、土佐勤王党を結成した保守的革命家。
公武合体の吉田東洋と対立し、暗殺する。土佐藩を尊攘派に導く。藩主と共に上洛し、京都で尊攘運動
を展開するが、文久3年の八・一八の変の後弾圧を受け、投獄、切腹する。
◎薩摩藩
西郷 隆盛:さいごう・たかもり:吉兵衛:1827年(文政10):1877年(明治10):
海舟と江戸城無血開城に持ち込み,悲劇的な最期を遂げた維新の英雄。
島津斉彬に随行して江戸に出て、橋本左内ら尊攘運動に活躍する。将軍継嗣運動では、斉彬の命で
一橋派として奔走し、安政の大獄で、僧・月照と入水したが、西郷のみが再生。
禁門の変、長州征伐、四国艦隊の下関砲撃と争乱のさなかの元治1年9月11日、海舟と面談し、海舟を
学問と見識に優れた英雄肌の人物として受けとめる。この時の海舟に対する西郷の尊敬と信頼の念は、
政府軍東下の際、江戸城攻撃を目前にしての両者の話合いに大きな影響を及ぼす。
慶応2年薩長連合を結び、明治1年には、大総督軍参謀として江戸城を無血開城する。戊辰戦争では、
参謀を務め、陸軍大将兼参議となり廃藩置県を遂行。明治6年征韓論の主張で退官し、薩摩で私学校を
設立したが、それがもとで、明治10年西南戦争を起こす。
大久保 利通:おおくぼ・としみち:市蔵:1830年(天保1)−1876年(明治11):
西郷と共に尊擾派で周到な政治家。島津久光に従い、公武合体に尽力したが、西郷隆盛と共に討幕に転じ、
薩長同盟を推進し、王政復古に活躍する。
新政府の第一人者として参議、内務卿を歴任、独裁政権を実現したが、不平士族に暗殺される。
島津 斉彬:しまづ・なりあきら:惟敬:1809年(文化9)−1858年(安政5):
斉興の長子。早くから蘭学を学び、海外事情に通じる。世子時代から徳川斉昭、松平春巌、阿部正弘らと
親交を深める。43歳で藩主となり、ガラスや陶磁器などの諸製作工場を総称して「集成館」と名づけ、
殖産興業や洋式兵備に尽力する。
時代と人材を見通した名藩主。西郷隆盛らを見いだし登用した。
島津 久光:しまづ・ひさみつ:双松:1817年(文化14)−1887年(明治20):
最後まで西郷と不仲だった藩主。1858年(安政5)長子忠義の襲封で国父をして実権を掌握する。
1862年(文久2)率兵上京、江戸にも下り、公武合体、幕政改革を推進し、朝廷への発言力も強化する。
のち、西郷、大久保らに実権を奪われ、維新後左大臣になった。
益満 休之助:行高:ますみつ・きゅうのすけ:新八郎:1841年(天保12)−1868年(明治1):
真心影流の使い手で,江戸にて隠密謀者として訓練を受ける。
小松 帯刀:こまつ・たてわき:清廉:1835年(天保6)−1870年(明治3):
文久1年 島津久光の藩政改革に際し、側役を勤め、藩政の中心にあった大久保利通、西郷隆盛らを要職に用いた。
西郷と共に薩長同盟を締結した家老
◎長州藩
吉田 松蔭:よしだ・しょういん:1830年(天保1)−1859年(安政6):
松下村塾の設立者。精神的な指導者。嘉永3年九州に兵学研究につき、海外情勢に目を開く。
翌年江戸に出て、佐久間象山に洋学を学ぶ。ペリー来航の際は、海外視察のため下田から密航を
企てたが失敗して、投獄される。獄中でも勉学に励み、囚人に「孟子」を講義した。
のち、萩の松下村塾で門弟を教育する。門下生には,高杉晋作・久坂玄端・伊藤博文・山県有明等。
熱烈な尊攘派だった為、井伊直弼の「安政の大獄」により江戸にて死刑。
桂 小五郎:かつら・こごろう:木戸 孝允:1833年(天保4)−1877年(明治10):
斎藤弥九郎に剣術を、江川英竜に洋式兵学を学ぶ。改革派の周布政之助により登用され、諸藩の要人や
尊攘派と画策し、長州藩京都藩邸の中心人物になった。
尊攘・討幕運動に指導的役割をはたし、西郷隆盛・大久保利通と共に維新の三傑と言われる。薩長連約の
締結に加わり、王政復古にも参画した。
維新後は、総裁局顧問、参議、内閣顧問などを歴任。五箇条の誓文を起草、版籍奉還、廃藩置県を推進した。
明治4年、岩倉使節団の全権副使として外遊。のち内政重視の立場から「征韓論」に反対し、台湾出兵にも
反対して下野した。1875年、大阪会議で参議に復職し、第一回地方官会議の議長を務めたが、西南戦争
の最中に病死した。
木梨 精一郎
高杉 晋作:たかすぎ・しんさく:春風:東行:1839年(天保10)−1867(慶応3):
尊王攘夷の狼煙を上げた風雲児。藩明により、1862年(文久2)上海に渡り、帰国後、尊攘運動へ
挺身する。四国連合艦隊の下関事件に際し、奇兵隊を組織する。薩長連合を結び、第二次長州征伐では、
幕府軍を各地で破るが、その直後、病死する。
井上 聞多:いのうえ・もんた:惟精:馨:1835年(天保六)−1915年(大正4)
旧姓志道聞多。文久3年(1863)イギリスに留学したが、四国艦隊下関砲撃事件で帰国、講和に努力する。
元治1年(1864)将軍上洛を追って入京した軍艦奉行並の海舟が長州藩士、志道聞多、
山形壮蔵と会って摂海の警衛と対馬の危機を論じたのは3月の事、翌日には桂小五郎、山県半蔵の来訪を
受け、護国の急務である海軍の興起を説いて朝廷への泰上を依頼した。
そこには、攘夷派の長州藩との折衝に海舟らしい弾力的な政治活動がうかがえる。
海舟が第二次征長の講和の使者として安芸の巌島に赴き、井上が広沢兵助、太田市之進、長松文輔らと
これを大願寺に迎えたのは、慶応2年(1866)9月2日のことであった。不穏な情勢であったが、
海舟は撤兵を拒否する長州藩の主張をかわし得ず、幕府軍撤退への追撃はせぬという同意を取り付けて
交渉をまとめた。この日、俗論党に襲撃され重傷を負った井上の豪雄ぶりを誉めている。
維新後の井上は、財政政策の功績を上げ、外務、農商務、内務、臨時総理、大蔵の各大臣を歴任し、
退隠後は、実務界に力を尽くして元老と仰がれた。
大村 益次郎:おおむら・ますじろう:永敏:良庵:村田蔵六:1824年(文政7)−1869年(明治2):
近代兵制の父と称された軍略の鬼才。弘化3年蘭学を治めるために大坂の適塾に入門。塾頭にまでなった。
同門には、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉たちがいた。
嘉永3年萩に戻り父の後を継いで、医者を開業するが、人付き合いの悪い村田は、くすぶっていた。
そんな時、伊予、宇和島藩に招かれ、蘭学・兵学の教授にあたる。医学から兵学を学んだ。元治1年、
桂小五郎は禁門の変の後、彼の兵学の優秀さに気付き、彼を長州に連れ戻し、第二次長州征伐の時、参謀として起用した。
慶応4年上野寛永寺攻撃の際は、大村は参謀として、兵学を生かす。この時薩摩兵がもっとも危険な
黒門口に配され、その事に西郷隆盛が
「薩摩兵を皆殺しにする気でごわすか」と抗議すると、村田は平然と「さよう」と応え、さすがの西郷も、
村田の兵学の優秀さに「解りもうした」と、それ以上の抗議をしなかった。
久坂 玄瑞:くさか・げんずい:通武:江月斎:1840年(天保11)−1864年(元治1):
吉田松陰の松下村塾で秀才の誉れ高かった。早くから尊攘の志を抱き、諸藩の志士と交わる。八・一八の変
で長州藩が政局の主導権を失うと、武力で回復を企て、禁門の変を起こすが、敗れて、自刃。
伊藤 博文:いとう・ひろふみ:利助:俊輔:1841年(天保12)−1909年(明治42)
長州藩士。農家に生まれ、松下村塾の吉田松陰に師事し、高杉晋作に従って尊攘運動に参加する。
ロンドン留学後、討幕開明派に属する。
維新後、参与兼外国事務局判事、兵庫県知事を歴任。明治4(1871)岩倉使節団の副使となり、
大久保利通の信任を得る。1873年静観論争では岩倉具視、大久保利通を支持して、征韓派を退け、
その直後に参議兼工部卿となる。'75大阪会議を斡旋し、'78大久保利通横死後内務卿を継ぐ。
明治14年の政変で大隈重信を下野させ、議会開設の詔勅で政府危機を乗り切る。'82憲法調査のため
渡欧し、帰国後、立憲体勢への転換を図って制度改革を推進する。'85内閣制度を創立し、初代首相
となる。通算4度組閣、1900年立憲政友会を組織して総裁となり、日露戦争には、元老として戦争
指導にあたった。1905年新設の韓国統監となり韓国の保護国化を推進、'09辞任後、日露関係調整
のためハルピンに出向き、安重根(あん・じゅうこん)に暗殺された。
◎その他知人
近藤 勇:こんどう・いさみ:1834年(天保5)−1868年(慶応4):
武蔵多摩郡石原村の農家の出で、天然理心流近藤周助の養子となる。
京都守護職支配下で新選組を組織し、尊攘派志士の弾圧に活躍する。特に元治1年6月5日池田屋事件で
名を馳せる。
慶応4年、2月「軍事取扱」を命じられて幕府の全権を委ねられた海舟は、新選組の生き残りの近藤勇、
土方に、軍用金、銃砲を支給して、東山道軍の迫る甲府城に発進させた。すでに甲府城は占領されており、
近藤は、下総流山で捕らえられ板橋の刑場で斬首された。
渋田 利右衛門:しぶた・りうえもん:
北海道函館の貿易商人。日本橋,嘉七と言う蘭書店にて合う。蘭学修行の貧しい勝を助ける。
清水 次郎長:しみずのじろちょう:山本 長五郎:1820年(文政3)−1893年(明治26):
新門 辰五郎:しんもん・たつごろう:1800年(寛政12)−1875年(明治8):
江戸火消し。江戸開城に際しては,海舟から万一の時のため江戸に火を付ける役を頼まれる
橋本 左内:はしもと・さない:網紀:景岳:1834年(天保5)−1859年(安政6):
福井藩:嘉永2年大坂の緒方洪庵の適塾に入門する。その後江戸で、藤田東湖、西郷隆盛らと親交を深め、
帰藩後は、春巌の元、雄藩連合による統一国家を構想し,京師で公家たちに解いて回った。
安政の大獄に遇い、斬罪に処せられた。
由利 公正:ゆり:
江藤 新平:えとう・しんぺい:南白:1834年(天保5)−1874年(明治7):
肥後藩出身。幕末に脱藩して、尊王攘夷運動に参加。明治1年徴士となり新政府の江戸占領に際して
江戸鎮台判事として活躍した。江戸城開場時には,城内に残る文献を調べあげた優れ者。
のち文部大輔、左院副議長を歴任、'72司法卿となり、司法制度の整備に努力した。'73参議となった
が「征韓論」政変で下野。'74民選議員設立建白書に署名したが、佐賀の乱の首領として敗れ、
刑死した。
長井 雅楽:ながい・うた:1819年(文政2)−1863年(文久3)
徳川 斉昭:とくがわ・なりあき:1800年(寛政12)−1860年(万延1):
将軍継嗣問題で大老・井伊直弼と対立して、「安政の大獄」で蟄居させられた水戸第9代藩主。
慶喜の実の父。1829年藩主に座に就き、藤田東湖、会沢正志齋ら藩内下層改革派の実力者を
積極的に登用し藩政改革を進める。軍政も改め、大砲を鋳造する。徳川光圀の意志を継ぎ、
「大日本史」を編成する。
熱烈な尊王攘夷論者で、幕末各藩の下級武士たちに多大な影響を与える。
河井 彦斎:かわい:1834年(天保5)−1862年(明治4):
幕末維新期の尊王攘夷派で「人斬り彦斎」と言われた肥後藩士。禁門の変後に脱藩、長州に身を寄せ、
佐久間象山暗殺に参加する。
維新後肥後藩領で活動、1871年愛宕通旭らの反乱に参加し、処刑された。
雲井 竜雄:くもい:1844年(弘化1)−1870年(明治3):
政府転覆の嫌疑で殺された直情の米田藩士。
藤田 東湖:ふじた・とうこう:1806年(文化3)−1855年(安政2):
水戸藩士:藤田幽谷の二男。尊王攘夷派の指導者。藩主・斉昭を補佐して藩政改革に尽力し、
側用人となる。また、弘道館を設立し、兵器・軍艦を作って兵制整備につとめるが、これが
幕府の忌諱に触れ斉昭は謹慎、東湖は蟄居となる。蟄居中、尊攘思想を「正気歌」「回天詩史」
に著わし、幕末勤王家に強い影響を与える。
後、ペリー来航で斉昭が幕政参与になると、再び側用人となり、海防策などを進言する。
安政の大地震の時、母を助けて圧死。
箕作 阮甫:みのさく・げんぽ:
幕府天文方翻訳員で,蘭学の総本山的人物。蘭学の志を決心させた人物
陸奥 宗光:1844年(弘化1)−1897年(明治30):
治外法権の回復に努める
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