Main

 
勝 海舟 辞典


幕末 辞典



安 政 金 銀:あんせいきんぎん
江戸幕府が安政年間(1854−60)に鋳造した金銀貨。
金貨の量目は大判・小判以下いずれも量目不足で、幕末の弊制を混乱させた。
金貨を正字金、銀貨を政字銀とも称した。丁銀は明治1まで、その他は1874年まで通用した。

安政の五か国 条約:あんせいごかこくじょうやく
江戸幕府が安政5年(1858)米・蘭・露・英・仏各国と締結した条約の総称。
アメリカ総領事ハリスは、中国でのアロー号事件における英仏の脅威等を利用して幕府との 条約交渉を有利に進め、同時調印をもくろむオランダ領事官クルチウスを尻目に6月19日 (陽暦7月29日)単独調印に成功。
続いてオランダとの条約が結ばれ、更にロシア使節プチャーチン、イギリス使節エルジン、 フランス使節グロが相次いで来日し、それぞれ通商条約を締結した。各条約は本文と貿易章程からなり、 自由貿易を骨子として開港を規定した日米修好通商条約を原型とする不平等条約で、片務的な 最恵国待愚条約によって欧米列強は相互に結びつき、のちの条約改正にあいて各国に共通の利害を形成した。
安政五か国条約は勅許が得られないまま幕府によって調印されたため仮条約とも呼ばれ、尊王擾夷運動の 激化とそれに対する安政の大獄等の事態を招いた。

医 学 所:いがくしょ
江戸幕府の西洋医学校。安政5年(1858)伊藤玄白らが神田お玉が池につくった種痘所。万延1年(1860) 幕府直轄となり、文久1年(1861)西洋医学所、文久3年(1863)医学所と改称。
明治1年(1868)明治政府が接収し、医学校と改称。明治2年(1869)大学東校、後の東大医学部となった。

生 野 の 変:いくののへん
文久3年(1863)10月尊王攘夷派が、討幕のため但馬生野に挙兵した事件。
文久3年8月の天誅組の挙兵に呼応し、福岡藩士・
平野国臣 らが、七卿落ちの一人である沢宣嘉を擁し10月12日生野代官所を占拠し、近辺の農兵2千名を動員した。 幕府は近接の諸藩に出兵を命じて攻撃した。挙兵組の分裂、農兵の離反が起こり3日間で鎮圧され、沢は 脱出したが、平野は捕らえられて翌年処刑された。

池田屋 事件:いけだやじけん

一 分 銀:いちぶぎん
幕末及び明治初年に発行された銀貨。4枚で小判1両に相当。
江戸時代の銀貨はもともと重さで価格が決まる秤量(しょうりょう)貨幣であったが、中期以降貨幣需要 の高まりと貨幣素材の不足により、幕府は銀貨を金貨の補助貨幣にしようと安永1年(1772)以降、 金の単位呼称と同じ銀貨を発行した。南鐐(なんりょう)二朱銀や文政二朱銀・一朱銀がこれである。
天保8年(1837)に初めて発行された一分銀も同様で、基準貨幣である天保小判・一分判の2.5倍、 安政6年(1859)改鋳された一分銀は安政小判・一分判の73倍も発行され、主流通貨幣となった。 重量は1個2.3匁(8.6g)、純分率98.9ないし89.4%であったが、当時の小判対丁銀の交換 比率を基準をすれば幕府に莫大な改鋳益金をもたらした。
明治1年(1868)新政府は純分率を80.7%(重量不変)に落とした貨幣司吹(しふき)の一分銀を 発行したが、鋳造期間は半年にとどまった。

隠 居:いんきょ
家長が家督兼・財産権を相続人に譲り隠退すること。
鎌倉時代、武家家法において初めて隠居が法制上の問題とされるようになった。隠居と呼ばれるように なったのは、室町時代。
江戸時代の武士には、刑罰として隠居と、願い出による隠居があった。

上 野 戦 争 :うえのせんそう

江 戸 開 城:えどかいじょう

奥羽越列藩 同盟:おううえつれっぱんどうめい
慶応4年5月、戊辰戦争に際して東北・北越諸藩が結んだ反政府軍時同盟。
維新政府は奥羽越鎮撫総督に九条道孝を任じ、大山綱良・世良修蔵らを参謀として仙台に派遣、東北諸藩に 会津藩征討を命じた。仙台・米沢藩など奥羽25藩は会津藩赦免を嘆願、却下されるや世良を暗殺し、閏 4月23日奥羽同盟を結んだ。同盟は征討の中止を嘆願したが、拒否されると更に北越6藩が加盟して 奥羽越列藩同盟を結成、政府に対抗した。

王 政 復 興:おうせいふっこ

大 奥:おおおく
江戸城の奥向きの事。
大奥には将軍以外の男性は入る事が出来なかった。また、幕府政治への介入は厳禁されていたが、将軍側室と 結んだ老中などを通じて質素倹約令に抵抗する事もあった。

大塩平八郎の乱:おおしおへいはちろうのらん:

奥 医 師:おくいし
江戸幕府の医官。若年寄りの支配。
本道(内科)、外科、眼科などに分かれる。定員10数人。将軍や奥向きのものを診察する。 世襲の家のほか、すぐれた藩医や市中の医者も抜擢された。

お由羅 騒動:おゆらそうどう:⇒高崎崩れ

海 援 隊:かいえんたい
坂本龍馬が諸藩の浪士を中心に組織した私設海軍・商社。
当初は亀山社中と称し、薩長への武器輸送等を行い国事に疾走。慶応3年(1867)土佐藩に付属され 海援隊と改称したが、坂本龍馬暗殺後は振るわず、翌年解散した。
[海援隊資料]

海 軍 総 裁:かいぐんそうさい
江戸末期の幕府海軍を統括した職。
文久2年(1862)設置。12月阿波藩主・蜂須賀斉裕(なりひろ)を陸軍総裁兼海軍総裁に任じたが、 まもなく老中分担職となる。専任は慶応2年(1866)12月老中稲葉正巳が最初。

海軍 操練所:かいぐんそうれんじょ
江戸末期の幕府の海軍教育機関。
元治1年(1864)軍艦奉行・勝海舟の建言で神戸に創設した。幕臣の子弟や諸藩士を教育し、坂本龍馬 らを育てたが、翌年廃止された。

海軍 伝習所:かいぐんでんしゅうっじょ
江戸末期の幕府の海軍教育機関。
オランダから軍艦スンピン丸(観光丸)寄贈を機に、安政2年(1855)長崎に創設。教官はオランダ人士官で、 勝海舟・榎本武揚ら幕臣や諸藩士が学んだ。安政6年(1859)廃止になる。

海 軍 奉 行:かいぐんぶぎょう
江戸末期の幕府海軍を統括した職。
慶応1年(1865)設置、初代奉行に黒羽藩主・大関増裕(ますひろ)を任命。慶応2年(1866)海軍 総裁が常設されるとその直属となった。慶応4年(1868)幕府瓦解と共に廃止された。

海 軍 歴 史:かいぐんれきし
明治前期の史書。
勝海舟著書。25巻。明治22年(1889)海軍省から出版された。幕末の幕府海軍の歴史を史料をかかげて 詳述。

会 計 総 裁:かいけいそうさい
江戸末期の幕府の財政担当職。
幕府は従来勝手掛(勝手御入用掛)老中の担当であったが、慶応3年(1867)老中事務を分離させて総裁 制とし、会計総裁に松平康英を任命した。慶応4年(1868)4月廃止。

開 国:かいこく
幕末期、日本が鎖国を解き、欧米列強の近代国交、通商関係包摂された事。
天保13年(1842)アヘン戦争での中国敗北に衝撃を受けた幕府は、異国船打払令を緩和した。嘉永6年 (1853)続いて嘉永4年ペリーの来日で幕府は、日米和親条約を結ばされ、国交を樹立した。さらに安政 5年(1858)日米修好通商条約が締結された。その後、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとも通商条約 が結ばれた。
最初は、神奈川、箱館、長崎、で貿易が始まり、次いで兵庫、新潟が開港され、江戸、大坂が開市された。 貿易は事前の予想以上に順調で伸び、国内の商人が横浜などに続々と集まった。
貿易相手国は、圧倒的にイギリスで、輸出の第一位は生糸、輸入の第一は綿製品であり、原料輸出・製品輸入 という後発国型の貿易構造であった。日本の開国は、世界市場確定の最後の一環であった。

開 国 起 源:かいこくきげん
開国前後の外交史文書集。
勝海舟編。3巻。明治26年(1893)刊。幕末当時の政治・外交情勢を知るのに貴重な史料。

開 国 論:かいこくろん
江戸後期に起こった鎖国廃止論。
18世紀後半には蘭学が起こって国際知識が得られ、当時の対ロシア北方問題の影響があり、工藤平助の 『赤蝦夷風説考』や、本多利明の『西域物語』に著されたような海外貿易論があった。
19世紀前半には、イギリスの東洋進出に伴う対外危機感が生まれ、会沢安(やすし)や、佐藤信淵(のぶひろ) らの海外侵略論や、渡辺崋山(かざん)らの鎖国廃止論などが登場した。弘化1年(1844)のオランダ 国王開国勧告の後、ペリー来航時には幕臣・向山源太夫(げんだゆう)ら少数の開国論があった。ハリス来日時 には、国際知識が豊かになり、薩摩藩・島津斉彬(なりあきら)や福井藩・松平慶永(よしなが)らが、開国論 を唱え、外交にあった幕臣・岩瀬忠震は開国による幕府再興を論じた。国際的な軍事力の差なども広く認識され、 戦争回避のための開国論は大勢を占めた。
貿易開始後は、売り込み商人が横浜に殺到する状況があり、開国が事実として定着した。

外 国 奉 行:がいこくぶぎょう:
幕末期の幕府の役職。
安政5年(1858)日米修好通商条約が締結に伴い海防掛にかわって設置された。老中のもとに属し、 人員は10名以下、高2000石。初任は水野忠徳(ただのり)、永井尚志、岩瀬忠震ら。
慶応4年(1868)2月に廃止された。

開 成 所:かいせえいじょ
江戸幕府の洋学教育機関。
蕃書調所を洋書調所と改め、さらには文久3年(1863)開成所と改称した。蘭・英・仏・独・露などの 外国語と自然科学・兵学など8学科を教授した。明治1年(1868)明治政府設立後、開成学校と改称。 のち東京大学に発展した。

開 成 丸:かいせいまる
幕末期に仙台藩が建造した帆船。
嘉永6年(1853)大船建造の解禁後、仙台藩が長崎で造船術を学んだ陶工三浦乾也に委嘱して建造した。 木造スクーナー型で全長33メートル、総工費5万両。安政4年(1857)進水した。

回 天 丸:かいてんまる
幕末期の幕府の軍艦。
木造帆船で、排水量1678トン、砲11門、速力12ノット。1853年プロシア製。
慶応2年(1866)幕府がアメリカ人から18万ドルで購入した。明治2年(1869)宮古沖で新政府軍と 交戦した後、函館で自焼した。

開 陽 丸:かいようまる
幕末期の幕府の軍艦。
文久2年(1862)オランダに40万ドルで注文し、慶応2年(1866)竣工、慶応3年(1867) 横浜に回航された。蒸気船で排水量2730トン、砲26門、速力9ノット。
慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いの際、将軍徳川慶喜を乗せて江戸に帰還、榎本武揚ら旧幕府海軍の旗艦 となったが、北海道江差沖で破船した。

偕 楽 園:かいらくえん
水戸市常盤公園内の庭園。
水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が、天保13年(1842)に造らせたもの。明治6年(1873)一般に 開放された。金沢の兼六園、岡山の後楽園と共に日本三名園の一つで、観梅の名所。

鹿児島 紡績所:かごしまぼうせきしょ
幕末に薩摩藩が創設した日本最初の近代的紡績工場。
慶応1年(1865)イギリスへ五代友厚らを派遣して機械を購入し、技師も招いて藩主の磯浜邸に工場を建設し、 慶応3年(1867)操業を開始した。明治2年(1869)堺に分工場の堺紡績所を建設。1871年廃藩置県 の時、民営化して商通社が経営。西南戦争後、一時浜崎太平次が経営したが、1882年旧藩主島津家の経営と なって存続した。激しい競争に敗れ、1898年閉鎖した。

和宮 降嫁 問題:かずのみやこうかもんだい
江戸幕府14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹和宮親子内親王の結婚をめぐる政治問題。
万延1年(1861)公武合体策として、老中・久世広周(ひろちか)、安藤信正らの幕府首脳は和宮の家茂への 降嫁を要請、孝明天皇は和宮と有栖川宮熾人(たるひと)親王との婚約などを理由にいったん拒否したが、侍従 岩倉具視の建策で攘夷を条件に承諾、文久2年(1862)2月、婚儀が行われた。
これは尊攘激派を刺激し、坂下門外の変や岩倉具視ら「四奸二嬪(しかんにひん)」の追放などを引き起こした。
[和宮資料]


神奈川 奉行:かながわぶぎょう
幕末期の幕府の職名。
安政6年(1859)神奈川開港場管理のため外国奉行の兼帯で設置。当初交代で派遣されたが、万延1年 (1860)以降専任2名となる。長崎奉行の上座で高2000石、役料1000俵。明治1年(1868) 新政府が接収、神奈川裁判所となった。

寛 永 寺:かんえいじ
東京上野公園内になる天台宗の関東総本山。山号、東叡山。
元和8年(1622)天海が幕府の援助で江戸忍岡に寺院を建立、寛永2年(1625)本坊(円頓院:えんどんいん) 完成。正保4年(1647)尊敬(守澄:しゆちよう)法親王(ほつしんのう)が寛永寺に住して日光山輪王寺 門跡となり、のち天台座主(ざす)も兼ねた。増上寺とともに将軍廟所(びょうしょ)とされ、門跡領も1万 3000石に及んだ。戊辰戦争で、堂舎の大半を焼失した。

咸 臨 丸:かんりんまる
江戸幕府がオランダから購入した軍艦。原名ヤッパン号。
安政4年(1857)8月に長崎に回航。100馬力、3本マスト、蒸気船、長さ:163フィート(47メートル)、 幅24フィート(7メートル)、300トン、砲12門。
軍艦奉行・木村喜毅(よしたけ)、艦長・勝海舟以下日本人ばかり90名が乗船し、万延1年(1860)遣米 使節の随行艦として日本最初の太平洋横断を遂行。戊辰戦争では、榎本軍に属した。
[咸臨丸史料]

紀尾井坂の変:きおいざかのへん
大久保利通が東京麹町の紀尾井坂下で暗殺された事件。明治6年(1873)征韓論の分裂で、西郷隆盛・板垣退助 らが下野した後、大久保が政府の実権をにぎった。このころ反政府は・不平士族に対する不満が高まり、 特に西南戦争後は、大久保に非難が集中、1878年5月14日石川県士族島田一良らが、赤坂仮皇居に向かう 大久保を襲い刺殺した。
彼らは5か条の斬奸(ざんかん)状をもって自首し、審問後、斬罪に処された。

奇 兵 隊:きへいたい
幕末維新期における長州藩諸隊の代表的軍隊。
文久3年(1863)長州藩は下関海峡で外国船を砲撃し、報復攻撃を受けた。危機打開のため高杉晋作が起用 され、奇兵隊を結成した。奇兵とは、藩の正規兵に対する意であるが、武器や俸給は藩庁から支給された。 隊員は、武士と農民・町民が約半分ずつ占めており、身分制度にとらわれない力量重視の有志の隊であった。 しかし、隊中では、出身身分によって袖印が区別され、武士出身が優遇されたため、入隊時に武士の養子と なる手続きを取るものもいた。元治1年(1864)英・仏・米・蘭の四国艦隊下関砲撃事件において防御 にあたり、翌年の藩内内訌(ないこう)戦では、保守は政権を倒すのに貢献した。
第二次幕長戦争、戊辰戦争でも、長州藩諸隊の代表的存在として活躍した。
明治2年(1869)兵制改革により兵士の精選が行われ解体された。これを不満とする隊士は脱退騒動を 起こしたが、木戸孝允らによって鎮圧された。

奇兵隊 日記:きへいたいにっき
長州藩奇兵隊の諸記録等を含む日記。
文久3年6月の創設から、明治2年解散(脱退騒動)直前まで、書記座(伍長、隊長等)が記録した。
原本は、京都大学図書館尊攘堂文庫蔵。

玉 泉 寺:ぎょくせんじ
静岡県下田市にある曹洞(そうとう)宗の寺院。山号瑞竜山。
安政1年(1854)日米和親条約締結後、、総領事館となった。日米修好通商条約により、安政6年 (1859)下田から横浜へ開港場が移り、玉泉寺の総領事館は閉鎖された。
境内には、ハリスの記念碑がある。

禁門の変:きんもんのへん


軍 艦 奉 行:ぐんかんぶぎょう

慶応義塾:けいおうぎじゅく
安政5年(1858)福沢諭吉が中津藩江戸屋敷内に開いた蘭学塾が起源。
後英学を教え慶応4年(1868)芝に移転、年号にちなみ慶応義塾を改称した。結社的協力を特色とし、 近代私学の先駆となった。明治4年(1871)三田に移転、人材を集め実業界に多くの指導的人物を送り出した。 1890年、大学部を設置し、98年、大学科・普通科・幼稚舎の一貫教育を整備。1920(大正9) 大学令により初の私学大学となる。
1949年(昭和24)新制大学となる。

公 議 所:こうぎしょ
徳川幕府が、慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いの後に設置した議事機関

公議政体論:こうぎせいたいろん
幕末維新期、幕藩体制建て直しのために公武合体と諸侯会議を核とする新しい国家権力の構想。

文久年間(1861−64)以来の政治体制の再建構想が、欧米の議会制度の知識を導入して登場したもの。 のちに上院(朝廷・諸侯)と下院(藩士・庶民)の二院制の構想に変容していった。坂本龍馬の『船中八策』、 西周(あまね)の『議題草案』、津田真道(まみち)の『日本国総制度』などのプランは、いずれもこの 公議体制を取りいれていた。

弘 道 館:こうどうかん
江戸後期の水戸藩藩校。
天保12年(1841)藩主徳川斉昭が開設した。水戸学にもとづく『弘道館記』の建学の趣旨を教育理念とし、 尊王攘夷思想の実践を目指すと共に、西洋医学なども教育した。藩校中最大規模を誇り、以後の藩校のモデルと された。他に同名の藩校が多い。

弘道館 記述義:こうどうかんきじゅつき
『弘道館記』注釈書。藤田東湖著。2巻。弘化3年(1846)初稿、慶応2年(1866)刊。
『新論』とならぶ後期・水戸学の原典。尊王攘夷思想に多大の影響を与えた。

公 武 合 体:こうぶがったい
幕末期に朝廷の伝統的権威をかかげ、幕府再強化や雄藩の政権割り込み策を進めた政策。
水戸学などに、朝廷を利用して幕政専制を改め、幕藩性を再生強化しようとする公武合体の思想があった。 幕閣と公家によって計画され文久2年(1862)に実現したのが、将軍徳川家茂と皇女和宮の結婚であった。 幕府によるこの公武合体策は、尊攘運動を強化させた。
長州藩の航海遠略策や薩摩藩の島津久光による率兵上京は、雄藩の進出を背景とする公武合体運動である。 やがて、文久3年(1863)8月18日の政変により尊攘派が敗北し、一橋慶喜・松平容保・松平慶永・ 山内容堂・伊達宗城・島津久光ら公武合体派の雄藩大名らによる参預会議が成立したが、内部対立により解体 した。
その後、慶応期には、雄藩連合による幕藩制改革を唱える公議政体論が土佐藩・越前藩などによって推進され、 有力な潮流であったが、王政復古後の小御所会議で倒幕派の強硬論に圧倒された。

講 武 所:こうぶしょ
幕末期、幕府の武芸練習所。初め築地鉄砲洲にもうけられ、のち神田小川町に移った。
安政1年(1854)列国軍隊の近代的装備に刺激されて公武場を設置した。翌安政2年総裁・頭取を任命し、 諸役人・旗本・御家人に武術・様式調練・砲術などを講義した。安政3年講武所と改称。
慶応2年陸軍所と改称、砲術訓練の場となった。教授としては、男谷精一郎・高島秋帆・勝海舟らが有名である。

神戸 事件:こうべじけん
慶応4年(1868)1月、神戸居留置付近で岡山藩兵が前方を横断した外国人に発砲・負傷させた事件。
英・仏・米の守備兵が応戦して居留置を占領したため、新政府は各国代表に王政復古を通告し、条約の遵守と 外国人の安全を保障し、2月責任者の滝善三郎を切腹させて解決した。

小梅 日記:こうめにっき
幕末ー維新期、紀州藩士川合修の妻小梅が記入した日記。
天保8年−明治18年の女性から見たペリー来航、藩主慶福(よしとみ)の将軍就任等の重要事件と同家との 関係や、日常生活が詳細に記されている。

五か条の誓文:ごかじょうのせいもん
慶応4年(1868)3月14日、明治天皇が京都御所の紫宸(ししん)殿で公卿・諸侯以下100官を率いて、 天地神明に誓う形で発表した新政府政権の基本方針。
由利公正(きみまさ)・福岡孝弟(たかちか)の原案を木戸孝允が修正し、さらに岩倉具視・三条実美(さねとみ) も加わって最終案を作った。
原案の「列候会議を興し」を「広く会議を興し」と改め、公議輿論(よろん)政治を強調。発布は江戸城攻撃 予定日の前日で、解明的な条文の背後には、討幕派が公議政体派をおさえつつ、諸列強の支持を得ようとした 配慮がうかがわれる。

五榜の掲示:ごぼうのけいじ
慶応4年(1868)3月15日、五か条の誓文の翌日に太政官が江戸幕府の高礼(こうさつ)のかわりに 立てた5枚の制札。
第1−3の札は、永世の定法を掲示する定三札とし、幕府と同じ五倫の道を勧め、徒党・強訴・逃散(ちょうさん) を禁じ、キリシタン・邪宗門を禁じた。第4・5札は、一時の掲示である覚札で、万国公法に従い条約の尊重と 外国人殺傷の禁止、脱藩浮浪の禁止と浪士取り締まりなどを示した。
五か条の誓文に述べられた解明的な公議輿論の尊重とは対照的であった。

坂下門外の変:さかしたもんがいのへん

佐賀の乱:さがのらん

桜田門外の変:さくらだもんがいのへん

鎖 国:さこく
江戸幕府が権力確立のため、キリスト教の禁制を軸に、貿易・通交の管理と日本人の海外往来禁止を目的に 実施した対外政策およびその状態を言う。
19世紀初頭に海外への関心が強まった時、知識人にこの状態を鎖国と見る認識が広まり、この用語が 定着した。
ペリー来航まで朝鮮・琉球との通交、中国・オランダとの通商を除いて外国との交流はなかった。鎖国は禁教と 貿易統制により幕府の国家権力としての側面を強化する役割を果たしたが、人民の自由な通交を抑制する点で、 中国・朝鮮など東アジア諸国との共通点を持つ政策であった。

薩英 戦争:さつえいせんそう

薩長芸三藩盟約:さっちょうげいさんぱんめいやく
慶応3年(1867)9月に結ばれた薩摩・長州・広島3藩の出兵盟約。
9月19日薩摩の大久保利通と長州の木戸孝允・広沢真臣の間の両藩の出兵盟約が成立、翌20日には長州の 木戸・広沢と広島の植田乙次郎の間に同様の盟約が成立した。盟約が定めた配置や時期どおりの出兵はなかったが、 10月14日の大政奉還と同時に出された討幕の密勅により、薩長両藩は京都への兵力輸送を開始、広島藩も これに協力した。

薩 長 盟 約:さっちょうめいやく
薩長同盟、薩長連合とも言う。慶応2年(1866)薩摩藩と長州藩の間で結ばれた政治・軍事の同盟。
幕末の政治運動で薩摩・長州両藩は共に反幕的でありながら、陰に陽に抗争を重ねた。特に文久3年(1863) の8月18日の政変や翌年の第一次幕長戦争では、薩摩藩は幕府側にたち長州藩を屈服させた。しかし幕府が 長州再征に着手すると、西郷隆盛や大久保利通らの画策により薩摩藩は出兵拒否の意向を決めた。長州藩でも、 木戸孝允らの討幕派が再起し、土佐藩の中岡慎太郎と坂本龍馬の斡旋で、薩摩藩が長州藩の長崎での武器購入を 援助するなど、両藩提携の気運が生まれた。
慶応2年1月21日京都薩摩藩邸で小松帯刀・西郷隆盛と木戸孝允とが坂本龍馬を間に入れて会盟し、
6か条からなる盟約を成立させた。 来るべき幕長戦争に備えた攻守同盟であり、幕府の出方により、薩摩藩の京都での軍事行動も盛込んだもので あった。討幕運動の発展に画期的意味を持った。

薩 土 盟 約:さつどめいやく
慶応3年(1867)6月薩摩藩と土佐藩との間に結ばれた盟約。
当時土佐藩は大政奉還の後公議政体を樹立する公議政体論であり、薩摩藩は武力討幕論であったが、両者が 一時的に接近。
6月22日薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀と土佐藩の後藤象二郎・坂本龍馬との間で、大政奉還の後 列候による公議政体の樹立を合意した。

薩藩旧記雑録:さっぱんきゅうきざつろく
『薩摩旧記』ともいう。原題は『旧記雑録』。島津家史科を中心とした薩摩藩関係史科の集大成。
薩摩の歴史家伊地知季安・季通偏。362巻。文政年間(1818−30)着手、1897(明治30)ごろ 完成。

薩摩藩邸焼き打ち事件:さつまはんていやきうちじけん

三兵答古知幾:さんぴたくちき
江戸後期の兵衛書。27巻。弘化4年(1847)成立。
プロシア人ブライトの兵書のオランダ語訳を高野長英が重訳。三兵とは、歩兵、騎兵、砲兵の事で、答古知幾は オランダ語の戦術の音訳。

参 与 会 議:さんよかいぎ
参予とも書く。幕末に一時的に設置された有力諸侯の会議。
文久3年(1863)8月18日の政変後、島津久光・松平慶永・伊達宗城・一橋慶喜・山内容堂と京都守護職 松平容保を朝議参与に任命し、よく元治1年2月から幕府にも参画させた。しかし同年3月横浜鎖港問題等で 島津久光と一橋慶喜が対立し、全員辞職して会議は瓦解した。

山 陵 志:さんりょうし
江戸後期の陵墓考証書。蒲生君平著。2巻。文化5年(1808)刊。
歴代天皇陵を実施調査して考証を付したもの。天皇陵の復興と尊崇を説き、家老間瀬忠至が奉公に任じられ、 神武天皇陵造営などにあたった。

四国艦隊下関砲撃 事件:しこくかんたいしものせきほうげきじけん

静岡 学問所:しずおかがくもんしょ
明治初年度の静岡藩学校。明治1年(1868)設置。
当初府中学問所または駿河学校と呼ばれたが、1869年府中が静岡と改称されると共に静岡学問所となった。 幕府の学問所、開成所、横浜語学所を移したもの。学問所頭は、向山黄村、津田真道、教授に中村正直、外山正一 、勝海舟の門人・杉亨二ら。英・独・蘭・仏の学問のほか、漢学、数学を教えた。しかし新政府は洋学者を 次々に東京に招致し、1871年の静岡藩廃止により1872年閉鎖された。

士 族:しぞく
明治維新後、旧武士階級に与えられた族称。
明治2年(1869)6月、華族の創設に続き、各藩の藩士は一門から平士に至るまで士族と称する事が定められ、 12月、その下位に卒が置かれた。1872年1月、世襲の卒が、又2月には旧藩士の一部が士族に編入され、 11月、任官中の平民も士族をして扱うとされた。職業や身分間の通婚は自由であり、平民との身分上の格差は ほとんど消滅したが、「士族意識」といわれるものは長く残在した。
なお、戸籍の族籍記載は1914年(大正3)廃止された。

士族 反乱:しぞくはんらん
明治初期の不平士族の反政府運動。
新政府の家臣団解体・秩禄処分・士族特権剥奪政策あるいは開国和親・征韓延期に不満を持つ士族層は、 明治1年以降各地で暗殺・暴発を繰り返した。特に1874(明治7)佐賀の乱、1876年秋月の乱、萩の乱 神風連の乱、1877年西南戦争が著名。自由民権運動初期のいわゆる士族民権も不平士族の反抗の一形態である。 政府は強硬な弾圧策をとり鎮圧した。

七卿落ち:しちきょうおち

島 田 組:しまだぐみ
三井・小野組と共に明治政府の為替方をつとめた豪商。
江戸店持ちの京商品で屋号は夷(えびす)屋。江戸幕府の御為替御用達。維新後、官金出納を取り扱ったが、 1874年為替方担保を増額したため破綻した。

下田 条約:しもだじょうやく
幕末期に伊豆下田で締結された諸条約。
1:日米和親要約付録。嘉永7年(1854)5月締結。日米和親協約に規定された開港場の使用細則。
2:日露和親条約。安政1年(1855)12月締結。
3:日米約定。全9条。安政4年(1857)5月締結。前年着任したアメリカ領事館ハリスと外国奉行・ 井上清直との間で調印され、両国貨幣の同種同量交換、領事裁判権、領事旅行権などを規定した。

集 成 館:しゅうせいかん
幕末期、薩摩藩の洋式工場。
嘉永6年(1853)藩主、島津斉彬が富国強兵を目的として鹿児島磯部邸内に反射炉・溶鉱炉・硝子・陶磁器 ・電信機製造所・洋式紡績所などを設置した。文久3年(1863)薩英戦争により焼失したが、元治1年(1864) 再建、蒸気機関を備え、鉄砲・造船など軍事工業を中心とした。廃藩置県後国有となり、大砲製造所、のち 海軍造船所となるが、明治22年(1889)島津所有となった。現在の尚古集成館。

攘 夷 論:じょういろん
開国に反対し、外国勢力(夷狄)排除を主張する幕末維新期の排外論。
儒学の華夷思想の由来し、自国(中華)と夷狄とを区別する名分論の上に立つ。幕末期、先進列強がアジアに進出し、 日本の開国を要求するに及んで現実性を得て、政治的行動の論拠となる。後期水戸学が主張し、会沢安の 『新論』などはその典型。やがて井伊直弼の安政条約の違勅調印などを契機として尊王論と結びつき、反幕の スローガンとなった。攘夷論は明治初年まで尾をひき、外国人殺傷事件を引き起こした。
 
彰 義 隊:しょうぎたい
戊辰戦争の際、旧幕臣が結成した隊。
慶応4年(1868)2月23日結成。頭取:渋沢成一郎、副頭取:天野八郎で、一橋家の関係者が中心。上野の 東叡山(とうえいざん)寛永寺を屯所とし、江戸入城の維新政府軍と対立した。隊の分裂もあったが、脱走兵など を加えて勢力は3千名。
5月15日、大村益次郎の指揮する政府軍の攻撃を受け、壊滅した。
(上野戦争)

将軍継嗣 問題:しょうぐんけいしもんだい
幕末期13代将軍徳川家定の継嗣をめぐる政争。家定は生来虚弱の為安政4年(1857)から翌年にかけ 継嗣問題が発生した。松平春嶽、島津斉彬ら家門・外様大名は幕閣独裁を排する為英才の聞こえの高い一橋家の 慶喜を推し、井伊直弼ら譜代大名は家定と血縁の近い紀州藩主徳川慶福(よしとみ)を推した。結局井伊直弼が 大老に就任し、慶福を14代将軍に擁立、一橋派・尊王攘夷派を弾圧する安静の大獄をひきおこした。

将軍後見職:しょうぐんこうけんしょく
幕末期、若年の将軍を補佐する臨時職。
安政5年(1858)14代将軍徳川家茂(いえもち)が若年の為田安慶頼(よしより)を任命したが、文久2年 (1862)5月に廃止。7月復活し一橋慶喜を任命した。元治1年(1864)3月慶喜の辞任で再度廃止された。

昌平坂学問所:しょうへいざかがくもんしょ
江戸幕府の教育施設。
寛永7年(1630)上野忍岡の林羅山の家塾に始まる。元禄4年(1691)神田湯島に移転して拡大され、 昌平黌と呼ばれ始めた。寛政異学の禁を機に学制・施設が一新され、寛政9年(1797)幕府直営の学問所 となった。陪臣、浪人の入学も許し、公開講釈による庶民教化にもつとめ、名実ともに公儀の学府となた。
維新後、新政府管轄の昌平校ついで大学となり、明治4年(1871)廃止される。

新 撰 組:しんせんぐみ
幕末期の京都守護職配下の警備組織。
文久2年(1862)江戸幕府は浪士組を組織し、山岡鉄舟と清川八郎に命じて上洛させたが、清川は尊王攘夷派と 気脈が通じて分裂。京都に残った芹沢鴨・近藤勇ら13名は京都守護職松平容保の支配かに入り、新撰組を結成した。 まもなく近藤と土方歳三は局長・副長として実権を掌握し、きびしい局内法度で隊士を統制し、尊王攘夷派を弾圧 した。特に文久3年(1863)の池田屋事件は有名。
明治1年(1868)戊辰戦争では幕府軍として行動したが敗走し、近藤は斬られ、土方は五稜郭の戦いで戦死した。

新 徴 組:しんちょうぐみ
幕末期の江戸市中の警備隊。
幕府は文久2年(1862)浪士組を徴募した上洛させたが、清川八郎らが江戸に戻った。清川暗殺後、浪士組は 新徴組として再組織され、庄内藩の指揮下で江戸市中の警備にあたった。元治1年(1864)庄内藩に処遇を 一任し、幕府崩壊まで存続した。

吹 塵 録:すいじんろく
江戸時代の財政史料集。勝海舟編。35冊。明治23年(1890)刊。
松方正義の懇請により旧幕府関係者を集め、皇室・田制・国高・治水・貨幣・鉱山・外国通商などの各部に分けて 編成した。幕府財政収支などを知る貴重な史料。

政治総裁職:せいじそうさいしょく
幕末期の幕府の職名。
文久2年(1862)7月薩摩藩と朝廷の圧力で設置し松平慶永が任命され、同時に将軍後見職となった一橋慶喜と 共に幕政を指導した。しかし文久3年3月尊王攘夷運動高揚の中で松平は辞任を余儀なくされ、いったん廃止される。 同年10月川越藩主松平直克が任命されたが、元治1年(1864)6月免職となり廃止された。

西 南 戦 争:せいなんせんそう

西洋事情:せいようじじょう
幕末維新期の啓蒙的な欧米紹介書。福沢諭吉著。
初編3冊は慶応2年(1866)外編3冊は明治1年(1868)二編四冊は1870年に刊行。
欧米の政治・経済・社会・文化全般にわたる解説と、各国別の歴史・政治・軍事・財政の紹介からなる。 発行部数は、偽版を含めると25万部をこえたという。

赤 報 隊:せきほうたい
明治維新の草莽隊の一つ。慶応4年(1868)1月相楽総三ら旧薩摩藩邸浪士を一番隊とし、綾小路俊実・ 滋野井公寿擁立して近江で結成する。岩倉具視・西郷隆盛らの指示を受け、官軍先鋒隊として旧幕領の 年貢半減令を宣伝。新政府の方針変更で二・三番隊は帰京するが、一番隊のみは東山道を進んで信州に入り、 嚮導(きょうどう)隊と称した。東山道総督府は官軍の統制を乱す「偽官軍」として処断、3月相楽ら60名を 処刑した。

尊王 攘夷 運動:そんのうじょういうんどう
幕末の反幕・排外的な政治運動。
尊王論も攘夷論も思想としては儒教的名分論であり、むしろ政治運動として尊王と攘夷は本来個別のものであった。
安政5年(1858)の日米修好通商条約調印の際、将軍継承問題が紛争するなか、井伊直弼は勅許を待たずに 条約に調印した。改革的立場をとる一橋は大名は開国論に傾いていたが、違勅に対しては尊王を、条約調印には 攘夷を対置しここに尊王と攘夷は反幕運動として結びついた。また、京都における下級武士、草莽の運動が民衆や 雄藩改革派の利害と結びついて政治的意味を持つようになった。
下級武士、草莽が雄藩を背後からあやつる面もあったが、薩摩・長州・土佐などの雄藩も攘夷運動を一面で抑制、 一面で利用し、複雑な政争が展開した。
文久の頃(1861−64)尊攘運動は特に激化し、長州藩はこれを利用して中央で勢力を伸ばした。 平野国臣・有馬新七・久坂玄瑞・武市瑞山らが活躍し、外国人殺傷事件や公家らの暗殺事件が起きた。 幕府が攘夷実行を表明し、孝明天皇が賀茂・石清水へ行幸、長州藩が下関で外国船を砲撃した文久3年(1863) 中頃が尊攘運動の極盛期といえる。これに対する公武合体派の反撃が文久3年8月18日の政変で、薩摩・ 会津藩などの武力によるクーデターで尊攘派が京都から追放された。
また、薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件を機として、もともと開国論に傾いていた雄藩はイギリスに接近し、 開国による雄藩割拠の反幕政策に転じた。

尊 王 論:そんのうろん
天皇・王室尊崇の思想。
その源は、7C.の記紀神話律令体制による天皇権威の絶対化にある。仏教受容の拡大にとともに神仏習合が進行 すると、中世の顕密体制下では、王法仏法相依論によって正当化されるようになった。
江戸時代には、幕藩体制の教学である儒教的名分論と結びつき、身分秩序維持のイデオロギーとして機能した。 江戸中期以降は『日本書紀』の講読、神道研究、国史研究、国学の発達等、学問を通じて社会的基盤を拡大した。
江戸後期、対外的危機や国内矛盾の高まりに応じて幕府自ら朝廷利用を進めると、現実の政治的機能を強め、 幕府・将軍家を朝廷・天皇家の下位に置く秩序感が浸透していった。幕末にはナショナリズム結集の核として 天皇・神道を絶対視し、仏教を排撃する水戸学や平田派国学が盛行し、影響力を決定した。条約勅許問題の中で 攘夷論と結びつき、幕政批判・討幕運動の基盤となった。
明治維新後は、新たなる体制の教学となった国体論・国家神道の源流として、先駆者の発掘が進められた。

太陰太陽暦:たいいんたいようれき
一般に陰暦、旧暦という。月の満ち欠けの周期(1朔望月)と、太陽の回帰年(1太陽年)を構成要素とする歴。
中国で発達し、6世紀頃、日本に伝わり、明治5年(1872)まで行われた。

大 政 奉 還:たいせいほうかん
慶応3年(1867)10月14日に将軍徳川慶喜が政権の返上を朝廷に申し出た事件。
薩長盟約、幕長戦争後、討幕運動が進展したが、これに対して列藩会議による公議政体論を構想する土佐藩は、 幕府の政権返上による政治路線を推進し、6月薩摩藩に働きかけ、薩土盟約を取り付けた。薩摩藩は武力討幕運動の 中心であったが、この討幕派も雄藩連合ないし列藩会議の体制を基盤として必要としていたのである。
10月3日、土佐藩は大政奉還の建白書を将軍に提出し、慶喜は薩摩・土佐などの進言もうけ、10月14日 朝廷に大政奉還の上表文を提出、朝廷は翌日これを許可した。慶喜のねらいは実質的には将軍支配の再構築にあった とみられる。
同じ14日、薩摩・長州には、倒幕の密勅を入手していた。公議政体路線と薩摩を中心とする武力倒幕の路線は、 抗争しながらもからみあっていたが、12月の王政復古のクーデターにより薩長の討幕派が主導権を握った。

台 場:だいば
江戸後期ー幕末期、外国船の攻撃に備えるため幕府や藩によって沿岸各地に建設された砲台場。
嘉永6年(1853)ペリー来航を機に江川英竜の建議により建設された品川台場が有名で、現在も遺構が 残っている。

太 陽 暦:たいようれき
太陽の運行を基準とする暦法。
太陰太陽暦にかわり欧米諸国と同じ太陽暦の採用を決定、明治5年(1872)12月3日をもって明治6年 1月1日とし、以降太陽暦を施行した。このため庶民生活上対応できないことも多く、新旧の暦の併用や、 各種行事を旧暦または月遅れで行うといったことがその後も続けられた。当時政府が窮迫し、1ヶ月分の経費が 節約できたとも言う。

大 老:たいろう

高崎崩れ:たかさきくずれ
幕末期、薩摩藩の御家騒動。
藩主島津斉興の継嗣を、側近のお由羅の子・久光と島津斉彬のどちらにするかで藩内対立し、嘉永2年 (1849)斉彬擁立派多数が、処罰された。嘉永4年(1851)老中阿部正弘の介入により、斉興は隠居、 継嗣は斉彬となり落着した。

蟄 居:ちっきょ
江戸時代、武士に課せられた刑罰の一つ。自宅の一室に謹慎する事。
蟄居・蟹居隠居・永蟹居などの区別があった。

長州藩諸隊:ちょうしゅうはんしょたい
幕末期、長州藩の有志隊。
文久3年(1863)攘夷熱が高揚するなかで高杉晋作が身分にかかわらず組織した奇兵隊が最初。以後、御楯隊・ 鴻城隊・遊撃隊・南園隊・膺懲隊・八幡隊・集義隊・萩野隊・義勇隊など多数が組織された。元治1年 (1684)高杉の馬関挙兵の基盤となり、慶応1年(16865)第2次征長戦争、明治1年(1869)の 戊辰戦争で活躍する。 その後藩政改革での常備軍としての再編成に反発し、1870年にかけて脱退騒動を起こし、木戸孝允らに鎮圧 された。

寺田屋 騒動:てらだやそうどう

東征大総督:とうせいだいそうとく
戊辰戦争の際の新政府軍総司令官。
徳川慶喜追討の為、慶応4年(1868)2月9日総裁有栖川宮熾仁親王を任命。東海・東山・北陸の3街道の 先鋒総督兼鎮撫使を統率した。参謀は、西郷隆盛ら。
4月21日江戸入城。11月2日廃止。

東禅寺 事件:とうぜんじじけん
幕末期の尊王攘夷派によるイギリス公使館焼打ち事件。
1:イギリス公使館は江戸高輪東禅寺に置かれていたが、文久1年(1861)5月28日水戸藩士有賀半弥ら 10数名に襲撃され、書記官オリファントと長崎領事モリソンが負傷した。有賀ら3名は死亡、他3名が自刃した。
2:文久2年(1862)5月29日警備にあたっていた松本藩士が単独で襲撃し、2名の水兵を殺害して逃亡し、 自刃した。

討 幕 運 動:とうばくうんどう
幕末期、幕府を武力打倒する政治運動。広義には、公議政体論により武力対決を回避する政治運動があり、 これを討幕運動と書いて区別する事もある。
慶応2年(1866)の薩長盟約や、幕長戦争における薩長討幕派の勝利から翌年まで、討幕派の政治目標は、 雄藩割拠・連合という国家構想を出るものではなかった。1867年5月薩摩藩が主導した越前・土佐・宇和島 ・薩摩の四候会議の構想が破錠した後、薩摩藩は急遽討幕挙兵を決し、長州藩と連携、岩倉具視ら一部の公卿と 結び天皇を擁し、公議政体派をも巻き込んだ新政府の構想に着手した。新政府の構想には公議政体の構想も 利用された。薩摩藩は大政奉還建白と同日の10月14日討幕の密勅を入手し、公議政体構想との競合を回避し つつ、大久保利通・西郷隆盛・岩倉らごく一部の手によって計画を作成し、公議政体派をも巻きみつつ12月9日 王政復古のクーデターを断行した。その後の旧幕府側の巻き返しに対する討幕側の武力発動が戊辰戦争となった。

討幕の密勅:とうばくのみっちょく
幕末期に朝廷から薩摩、長州両藩に出された倒幕の非公式密勅。
岩倉具視と大久保利通らによって作成された。慶応3年(1867)10月13日中山忠能(ただやす)ら3公家 の連名による将軍徳川慶喜討幕の文書が薩摩藩あてに、14日長州藩あてに出された。これには京都守護職 松平容保、京都所司代松平定敬の誅戮(ちゅうりく)を命じる文書も付されていた。しかし同14日慶喜は 大政奉還を上表したので、21日には密勅の取り消しが布達された。

土佐商会:とさしょうかい
幕末に創立された土佐藩の物産の領買い売りさばき機関。
慶応2年(1866)創立の開成館の貨殖局出張所の別称。三菱商会の前身。慶応3年、長崎・大坂に出張所を 置いたが、この出張所を土佐商会と称した。その後、兵庫、堺、大津にも設置。特に岩崎弥太郎が指導した 長崎の出張所は艦船、銃を購入した為重要視されたが、大阪開市とともに大坂出張所に重点が移行した。
明治2年(1869)府藩県営の商会所の廃止令に伴い、1879年解散した。民営経営とない、土佐開成商社、 ついに九十九商会と改称。後の三菱財閥になる。

十津川郷士:とつがわごうし
大和吉野郡十津川郷の郷士。勤皇意識の強さで知られ、文久3年(1863)以降禁中守護にあたり、また天誅組 の挙兵に参加。戊辰戦争では、北越に転戦した。1871年全郷民が士族に列せられた。

鳥羽・伏見の戦い:とば・ふしみのたたかい
戊辰戦争の発端となった京都南郊の戦い。
慶応4年(1868)1月2日大坂にいた前将軍徳川慶喜は『討薩表』をかかげ、旧幕府軍1万名を率いて進軍を 開始、3日京都南郊の鳥羽・伏見で薩摩・長州軍4千と衝突した。旧幕府軍は数では圧倒しながら火器で劣り、 また4日朝廷が薩摩郡を官軍と認定したため、諸藩は続々と薩長軍側に付いた。6日夜慶喜は自軍を見捨てて 海路江戸へ逃亡し、7日旧幕府軍は瓦解した。

生麦事件:なまむぎじけん

日米修好通商条約:にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく

日米和親条約:にちべいわしんじょうやく
神奈川条約とも言う。幕末期、日米間に締結され、鎖国体制を破った最初の条約。
安政1年(1854)3月3日(陽暦3月31日)日本側全権林あきらとアメリカ東インド艦隊司令官ペリーとの間で 相模神奈川において調印された。全12条。伊豆・箱館を薪水給与の為に開港し、領事館を下田に設置する事を 規定する。ペリー派遣の主目的が、当時日本近海に来ていた捕鯨船員や漂流民の生命の安全確保と貯炭場の獲得に あった為、明確な通商規定を欠き、欠乏品の供給のみをうたった。
また、来日直前、中国居留米国人を太平天国の乱から保護するため軍艦をさかねばならず、当初の軍事強硬路線が 本国政府から拒否された事もあって、通商条約締結はその後の外交交渉にゆだねられた。さらに、太平洋航路開設 に備えた貯炭場の確保を目的にペリーは帰路琉球を訪れ、6月那覇で、漂流民の保護を趣旨とする米琉間の 修好条約を締結された。

農兵:のうへい
幕末期、戦闘要員として組織された百姓。
韮山(にらやま)代官江川英竜が天保10年(1839)に伊豆周辺の海防策として農民の軍事訓練を提案した 事から戦闘要員としての百姓動員という考え方が具体化、各藩でも開港後農兵隊が設置された。しかし、農兵を 武装させる事に対し幕閣内の抵抗・危惧は強く、幕府が百姓を農兵として動員したのは文久の改革の一環として であった。しかし、この時は海防と言うより、代官所の警護を補完するものと位置づけられ、慶応2年の世直し 一揆の高揚により、一揆に対抗する豪農の武力としての性格が与えられた。

廃藩置県:はいはんちけん
1871年(明治4)全国の藩を廃して統一した政治制度改革。慶応4年(1868)4月の政体書以降、 地方制度として府藩県三治制度がとられ、10月の藩治職制、翌年6月の版籍奉還、さらに1870年9月の 藩制布告などによって、政府の藩政に対する監督は強化された。
一方1871年2月以降、藩長土3藩から御親兵を徴集、この兵力を背景に廃藩置県が断固される事になる。 これにより東京・大阪・京都3府と302県が成立(年内に72県に整理統合)、府知事県知事が中央から派遣 された。諸藩の貢租は新政府に移され、また藩の負債も政府に引き継がれた。

幕長戦争:ばくちょうせんそう
長州出兵、長州征討とも言う。幕末期、幕府と徴集との戦いを言う。
1:第一次:元治1年(1864)禁門の変で長州軍が御所に向けて発砲した事を理由に、長州藩追討の勅命が 下った。幕府は、36藩を動員して広島へ軍隊を終結。長州藩内部では、四国艦隊下関砲撃事件による敗北の後、 保守派が台頭し、幕府に恭順の意を表したため、12月戦わずして撤兵令が下された。
2:第二次:慶応1年(1865)長州藩では高杉晋作らによって保守派政権が倒され、討幕派政権が設立した。 このため幕府は再び幕長戦争を決定し、将軍徳川家茂は大坂城に入って親征の体制を取った。しかし薩摩藩が ひそかに長州藩と同盟するなど諸藩の動員は難航した。そのため翌慶応2年6月戦闘を開始、長州藩を4方向から 攻撃したが、背後を大坂や江戸の打ちこわしに脅かされており、また武器の旧式のものが多かったため、 西洋式銃陣を採用して士気の高い長州軍に敗退した。この間に家茂が病死、8月の休戦の勅命により停戦した。

蛮社の獄:ばんしゃのごく
江戸後期に起こった幕府による洋学者弾圧事件。
三河田原藩士渡辺崋山は高野長英・小関三英ら洋学者を招き、海防を目的として、蘭学の研究をしていた。 天保9年(1838)モリソン号渡来の報に接し、崋山は『慎機論』を、長英は『戊戌夢物語』を書いて、 当時発令中の異国船打払令を適応する事に反対した。このような政治活動は、幕府の文教をつかさどる林家出身の 目付、鳥居耀蔵にに敵視される事となった。翌年1月幕府は崋山に師事する韮山代官江川英竜と鳥居に江戸湾周辺 の海岸巡視させた。江川は巡視後、復命書作成に崋山の助言を求め、復命書に添付提出予定の『外国事情書』の 執筆を崋山に依頼した。これを察知した鳥居は部下を使って密訴させ、その結果、崋山と長英は逮捕された。 幕政批判の罪で崋山は在所蟄居、長英は永牢の判決を受け、『外国事情書』提出のくわだては未発に終わった。 三英は、崋山・長英の入獄を知って自殺した。

反射炉:しゃろ

蕃書調所:ばんしょしらべしょ

版籍奉還:はんせきほうかん

東インド会社:ひがしいんどがいしゃ

ビッドル事件:びっどるじけん

一橋家:ひとつばしけ

文久の改革:ぶんきゅうのかいかく

丙辰丸盟約:へいしんまるめいやく

戊午の密勅:ぼごのみっちょく

戊戌夢物語:ぼじゅつゆめものがたり

戊辰戦争:ぼしんせんそう

水戸学:みとがく

山城屋事件:やましろやじけん

洋学:ようがく

洋学所:ようがくしょ

洋書調所:ようしょしらべしょ

陽明学派:ようめいがくは

陸援隊:りくえんたい

陸軍総裁:りくぐんそうさい

ロシア軍艦対馬占領事件:ろしあぐんかんつしませんりょうじけん

主に角川書店『日本史辞典』より